岩槻散策(2010年4月11日)

人は何故旅行するのか。それは非日常に触れたいから。
非日常に触れることで、人は自分が生きていることを確認できるんじゃないか、と最近そう思うようになってきた。

ということで、大学に行くつもりで昼家を出たところ、あまりにも天気が良くて、
「こんな天気なのに自習室にこもるのは天に対する冒涜である」
という声が聞こえたので、そのまま(=つまり六法や教科書が詰まった鞄を抱えたまま)池袋へ向かい、そこから北上。大宮に着くまでにどこに行くか決めなければならなかったのだが、候補としては、
行田(忍城、古墳)
川越(河越城
東松山松山城
岩槻(岩槻城
あたりを考えたが、行田は遠すぎる上、午後だけでは苦しい、っていうかそうなると東松山も無理。河越はもっとじっくり見たいし、じゃあ桜が有名な岩槻か、ということで岩槻へ。

大宮で野田線に乗り換え、十分少々で岩槻に到着。七里から岩槻の途中で見沼用水があるはずだと思って見ていたのだが、川らしきものが二本あって、どっちだかよくわからなかった。

岩槻到着。とりあえず人形の町というのを押しているらしい。
岩槻駅

日光東照宮を作った職人が岩槻でいい水を発見して人形を作り始めたっていう伝承だったかな?いずれにせよ町の中にはたくさんの人形屋さんがありました。

とりあえず地図を持ってなかったので、駅前で大抵置きっぱなしにされているような観光案内の刷ってあるような何かをさがすが見当たらない。まあここ都会だもんな…仕方ないので、駅前の観光案内地図を頭の中に頑張って叩きこもうとするがもちろん無理で、とりあえず城跡がどっちかということだけ頭に入れ、歩き出す。なんとなく東へ向かったのだが、途中で道がほとんど北に向かっていることに気付き、南に修正して、区役所のある県道二号線にたどりつく。
岩槻区役所

区役所の横に会ったモニュメントたち。
太田道灌

合併記念碑やらなんやら

太田道灌がすげー江戸時代の武士っぽいんですが気のせい?あと合併記念碑やらなんやら作る意味あったのかね。地方出身だとこういうのを自分の町に作りたくなる人がいるのはわかるんだけど、外の人が見ると割と白けちゃうと言うか…まあこれは自分の価値観かな。モニュメントとかそういうものにあまり価値を感じないと言うか。最近母校に故人である創立者のモニュメントがたったらしいんだが、そんなもの作るくらいなら、学校の設備を…とか思ったしなあ…

そこから道なりに進んで行くが、所々に道案内があるのでそれに従って道を曲がったりして時の鐘という、江戸時代に時間を伝えるのに使っていた鐘に到着。今でもばりばり現役らしい。

そこからは道がよくわからないので適当に東の方に向かうと、住宅街の中に「このあたりは以前は〜でした」みたいな案内板が結構あったりして、跡かたもないやんか!とか思いながらも、ありがたい。その案内板もあまり金掛かってないお手製感のあるもので、なんか頑張ってていいなあとか思ったり。途中でほんっとに跡かたもないような場所に大手門跡ってのが出てきたときはリアクションに困ったが…w(写真撮ろうにもなにも撮るものがないw

そのまま道なりに進んでいるとまた県道二号線に戻ってきてしまう。とそこでおばあちゃんの集団がいたので、その人たちについて行ったら、道の向こうに桜が沢山見える。これは間違いないと思い、進んで行くとなんと岩槻城の発掘現場が!これはテンションあがるww

ここで一応、岩槻城って言うのは、上杉家に仕えた太田道灌が敵対する古河公方(現在の古河)勢力と対抗する為に拠点にした武蔵の城で(ちなみに江戸城もそのために作られた)、北条氏の台頭後は、太田資正が北条氏に対抗するのに拠った城で、まあとりあえず太田氏との関係が深い城。その太田氏も色々あって追い出され、最後は羽柴秀吉による北条攻めで陥落するまで北条氏が支配していました。

岩槻城の跡地は北条氏が支配していた時代の、城の南側の遺構以外はほとんど何も残っておらず、元々あった湖沼は埋め立てられ、曲輪だったところには野球場ができたりしています。今では市民の憩いのになっていました。まあ確かに城跡って言うのは基本的に神社か、憩いの場になっちゃうんですけどね。しかし原型がほとんど残ってないのはやはり都心近くなので仕方がないことなんでしょう。

しかし南側にはちゃんと空堀、そして虎口(城の入口)と思しきものが残っていました!
この空堀、解説によると3メートルほど埋まってしまっているらしいんですが、それでもだいぶ高さがある。さらに、この空堀は、更に堀の向こうに盛土をすることで、大変攻めにくくなっていました。これはどうやら羽柴秀吉による北条攻めの際に強化されたもののようです。
空堀の下から写した写真。かなりの深さ

空堀を上から眺めた写真。落ちたら怪我するくらいの高さではある

当地の解説には明記されていなかったのですが、道灌橋というのがかかる小さな溝なども、これはもともと堀だったんじゃないかと思えるようなもので、想像力を膨らませればある程度楽しめるお城だったような。
あとは、城の東を流れる元荒川の流れとそれにかかる桜を見つつ、城の東側を北上。この城は元々、城の東側を元荒川で防御し、曲輪も沼や湖に囲まれていたのですが、元荒川の側には、沼地らしきものもあったりして、これもまた当時のことを想像するきっかけにはなりました。

元荒川

河川敷の桜

元荒川にかかる橋をわざわざ見に行った後、再び二号線を西へもどり、最後の目的地のつもりの愛宕神社へ。しかし地図がなくて調べられないので、とりあえず駅の近くだったよなと思い駅に向かう。グーグルマップを使えばよかったのだが、諸事情あって携帯の電池を温存しなければならなかったもので。

だいぶ歩いて駅の近くまで来たところで、歴史のありそうな商店街を左手に見つけ、そこに入って相変わらず多い人形屋などを眺めながら歩いていると、遷喬館という案内板を見つけたので、そちらへ向かう。途中左手にものすごい廃屋があって、ひょっとしてこれか?とか思ったが、もちろん違って、区図書館の反対側に発見。時間的に入れなかったが、外から見てふーんと思って、引き続き東へ歩く。その辺りに会った案内板によると、この一帯は武家屋敷が立ち並んでいたのだとか。途中の公園で更に詳細な案内板を見つける。

土塁跡ってのが南側にもあるもんだと思って向かってみたが、なにもなくて通り過ぎてしまうくらいの勢いだった。まあ残ってるわけないんだけど、ちょっとウォーカーズハイ(?)状態で頭があまり働いていなかったらしい。しかしこのあたりから東側一帯はすべて住宅街なのだが、やたら古い家が多い。子供が岩槻に残っていないということなんだろうか。

とまあ途中で挫折して、最終目的地の愛宕神社へ。二号線を横断し、北へ向かうが、ここもまた細い道が連なるまるで文京区の住宅街の中のような(しかし文京区と違って人気があまりがない)雰囲気で、道がわからないったらありゃしない。仕方なくグーグル先生に道案内をお願いし、なんとか到着。
で、なぜここに来たかったかというと、愛宕神社が鎮座している盛り土が、岩槻城の周囲を囲む土塁だったということで、その雰囲気を見るため。

で、その土塁がこんな感じ

って、土塁も何も、コンクリで固められててよくわかんねwwってのが正直な感想でしたが、のぼったりすると結構高かったりして、よくもまあこんな高さの土塁を八キロもめぐらせたなあと。これが北条氏の誇る惣構えか…すげーーーしかしゲームでは全然使えな(ryなんて思いながらそこから駅へ。

ちなみに高さはこれくらい(神社の並び。これもおそらく元々土塁)

そこから駅までは大した距離ではなく、滞在時間わずか三時間のリトルトリップはこれにて終わりを告げたのでした。しかし三時間で12キロくらい(判例六法や江頭商取引法等を背負って)歩いたため、割とお疲れだったり。だがそこから家庭教師へ向かった自分をほめてやりたい。

町の印象としては、人口は多いけど地方都市の空気もある、といった、都心周辺の地方都市の一つといった感じ。そのため、そんなに社会的に目新しいこともありませんでしたが、外から覗いた人形屋さんの人形の精巧な出来栄えは目を見張るレベルのものでした。芸術品にあまり関心がない自分が欲しくなっちゃうレベル。もし自分に子供ができたら買ってやっちゃったりしそうな…w
とりあえず、こういったものを最近では買わなくなっているわけで、それは保守派の方々からすると「誇るべき」文化の消滅と評価すべきなんだろうと思いますが、彼らはそういったことは考えていないんでしょうか?とりあえずこういったものを買って家に飾るってところからなんじゃないかと思ったりしましたね。というわけで、自分の最近の持論は、「文化は滅びうるが、食文化だけは生き残る」ですね。しかしあんな立派で精巧な人形を作る技術があるというのは割と驚きでした。やっぱ子供ができたら買ってあげることにしようww

城址は、ほとんど跡が残っていないため、空堀フェチでないとあまり楽しめないかもしれません。むしろ歴史ファンだったら怒っちゃうレベルかも。僕は虎口フェチですが、この城はまあぼちぼちといったとこでしょうか。馬出しがどこかわからなかったので…