中国地方旅行(2日目・米子→安来→松江)

朝起きたら案の定寝坊。八時半。飛び起きて準備。九時前にホテルを出て、結局海を目の前にするホテルだというのにそんなのを満喫する間もなく、急いで米子駅行きのバス乗り場へ向かう。電車は9時38分発、駅に着くのは35分の見込み。慣れない駅で三分で切符を買って飛び乗らなくてはならない羽目に。しかもバスだから時間通り到着するかどうかはわからない。車中では本当に冷や汗。というのも、何しろ山陰本線は本数が少ないうえ、事前に調べていた安来から月山富田城へのバスに乗るには、是が非でもこの電車に乗らなくてはならなかったため。これに乗り損ねると、松江城カットとなってしまう。

<朝六時にいったん目覚めた時点で撮ったホテルからの眺め>


駅に着いたのは36分。ここで別れる連れをほったらかし*1にして、さっさとバスを降り、乗り場へ走る。駅員さんに怪訝な目で見られるがそれも気にせず、安来行きの電車を確認し、陸橋渡って向かいのホームに止まっていた電車に飛び乗る。車中でも、原色シャツにリュック、そしてペットボトルやタオルやベースボールキャップをごてごてとさげた髭面の、いかにも観光客なルックスのため怪訝な視線を浴び続けるが、気にしない。田舎の電車らしく、ボックス席で家族が朝ごはんのお弁当を食べていたりして和む。

乗車時間は確か十分もなかった。米子市に隣接する安来市に到着。
着いてすぐに目に入ったのは、日立金属の工場。ホームの向かいにでかでかと看板をあげてるので目立つ目立つ。

<ホームから見える日立金属の工場>

とりあえずバスの時間が気になっていたのでさっさとバス乗り場へ。乗り場で確認すると、どうやらお目当てのバスは循環線らしく、しかもそれに乗ると遠回りになるように思われる。ここは何はともあれ観光案内所だと思って、駅構内にある案内所へ。お婆ちゃんが座っていらしたので、この人に聞いてもいいんだろうかと思いながらも尋ねてみると、どうもはっきりしない。するとすぐに若い綺麗なお姉さんが出てきて、要領よく説明してくれる。やはり日本の観光案内所は神。どこ行ってもはずれがない。
一通り説明を受けた後、お婆ちゃんとどこからきたの的な会話で盛り上がる。こういうときはいつも、東京からというべきか、(出身地の)九州からというべきか未だに迷うのだが、とりあえず東京からというと、あらまあ遠くから来たのね的リアクション。
どうもいつも鈍行旅行ばかりしていると、新幹線と特急を利用してきた山陰はあまり遠く感じないのだが*2、そう言えば東京と山陰って遠いんだよなとか他人事のように感じる。
この要領のいいお姉さんによると、どうやら月山富田城に行くには、月山入口というバス停以外に、市民病院前というバス停から歩くこともできるんだとか。そこで、一番早く月山エリア(広瀬町)に着くことのできる、市民病院を通るバスに乗ることに。

ところでこの安来駅、駅舎の雰囲気が素晴らしい。
木造ぽい感じで統一された駅舎の半分くらいのスペースを使って、地元の名産品販売店や、観光案内所が設置されており、二階には展示スペースもある。また、ゲゲゲの女房の里*3ということから、それ関連のお土産や展示も多く、割とにぎやかな雰囲気だった。とりあえず、一般的には、こういった地方が全国的なスポットライトを当てられることはあまりないため、いったんあてられると、千載一遇とばかりにそれに乗っかることが多いのだが、ここも若干その気が感じられなくもなかった。木更津のようにならないことを祈る。

安来駅駅舎>


それより何より安来市のイメージキャラクター(?)の「あらえっさ君」がかわいすぎて憤死するかと思ったww帰りにストラップに手ぬぐいを購入したのは言うまでもない。
安来市は、どじょうすくいと、安来節という伝統芸能があるんだとか。行くまで安来という地名すら知らなかったが、出雲地方最大の古墳もこの安来市にあるとかで、なかなか歴史ある土地のよう。尼子ゆかりの土地も多くあるし、中海もあるんだから、もうちょっと売り出し方変えれば歴史ファンは来るんだろうけど、そういう人たちばかり来たってたいしてお金落とさないからなあ…やはり家族連れを吸引しないといけないんだろうね。お城(山城)とか家族で行けないしな…

<あらえっさ君ファミリー。か わ い す ぎ る>


さて、バスに乗って三十分弱で、広瀬町の市民病院前に到着。バスは行きも帰りも全部で三人しか乗っていないというガラガラ状態だが、しかし天気も良ければ空気もいい、非常にのどかな車中といった体。バスの中では、窓の外の景色を見つつ観光案内所でもらった広瀬町についての地図やらを選別するいつもの作業。使えそうな地図を見つけ、行きたいところをチェックし、時間配分をざっと決める*4。そして、地図中に新宮党*5館跡という表記を見つけ、テンション駄々上がりwww

車窓の景色は、松江方向のバイパスをすぐに南に曲がって以降は、そう変わらず、飯梨川を挟んで東西に山という景色。川沿いに集落がひたすら並んでいる。橋を渡ってちょっと進むと、コンビニ等が見え、そこからすぐで病院に到着。そこから月山を探すが見当がつかない。
この病院は、月山から飯梨川を挟んで西側に位置する。川は流れがかなり変わっているようだが、現在は平地面積が広いためか、西岸の方が町として栄えているようである。当時がどうだったかはわからないが、いずれにせよ、この川を天然の堀として利用していたことは間違いない。少なくとも尼子氏が強勢を誇った頃、敵は西の大内氏や南西の毛利氏だったのだから、この地形は防衛にとって大変有利なもの。

何はともあれ朝ごはん食べてなかったなと思いつき、病院からちょっと南に行った個人商店でパンを買う。こういうお店では、都会のコンビニでそうするように、没交渉な感じでどしどし入って行って商品を探すと、強盗か泥棒かというような怪訝な目で見られるので、入ってあいさつして、店番が出てくるのを待つべしというのは最近静岡の島田で学んだ教訓。そこのお店のお母さんとちょっとお喋りして、月山に登るのにかかる時間や、周辺の行きたいスポットの位置等を確認。この方、宍道湖南岸の玉造からお嫁に来られたそうだが、ここで聴いた訛が、この旅で耳にした最初で最後の出雲弁だった。そんで月山富田城見に来ました〜って言ったら、月山は私の大好きなとこなのよ的なことで喜ばれる。

そこのお母さんに教えてもらった通りにまずは西岸を散策することにして、最初に尼子清定・経久の墓にお参り。確か洞光寺というお寺だったと思うが、御殿には尼子の家紋が入り、敷地内には尼子氏追悼碑があるなど、さすが地元、という感じである。

<尼子清定・経久の墓>

<尼子の家紋入りのお寺>

続いて、山中鹿介(幸盛)と一騎打ちして敗れたという品川大膳の墓に参ったり、山中鹿介一騎打ちの碑を眺めたりしてから、月山の方へ。

<山中公一騎打ちの処の碑。「公」になってるのか…揮毫は山中鹿介と親戚筋で元々尼子傘下の亀井氏(津和野藩主)による>

この山中鹿介、個人的には別にいいイメージがない、というか、ファンの方には申し訳ないがどうでもいいという感じの武将なのだが、その逸話からか、地元では中国地方の覇者であった尼子経久を押しのけるかのようなプッシュっぷりである。経久の像が川沿いの公園にあるのに対し、山中鹿介は富田城内にあったりと。正直山中鹿介って何がやりたかったのかさっぱり分からなかった上、いまだ存命の本家当主をほっぽり出して挙兵して当主を処刑リスクにさらしつつ、傍流の子孫で京都で出家していたのを引っ張り出してお家復興とか言ってる時点で、異国の耳が大きい英雄*6とキャラが被るんですがww、特に戦前の儒教的価値観?がよしとされる社会においては、お家に対する忠誠心や、自ら月に艱難辛苦をお願いしちゃうドMっぷりから、大変人気があったよう。
そういえば、彼はいわゆる無双系ゲームの登場人物になってもいいキャラだと思うけど、まだなってないね。そういや中国地方って無双系登場人物少ない?バサラでは毛利元就はいた気がするが、光栄のほうではいないような…確かにインパクトのある名将ってあまりいないっちゃいないですがね中国地方。有名人と言えば、毛利元就尼子経久(+久幸)、陶晴房、毛利両川、宇喜多直家黒田孝高くらいでしょうか。いずれもゲームには登場させにくい…か。その点山中鹿介悪くないんじゃないか。吉川元春とライバルにしてみる、とか…wしかし仲間が立原さんや亀井さんだとやはり地味…か(色々すみません

話それた。
飯梨川に出て、川沿いで尼子経久像を見て、そのまま川に沿って南へ。飯梨川、川幅はかなりある。目測150mくらいと見たがはたして。川にかかる日本の橋のうち、南の橋を渡り、まずは月山の麓にある道の駅へ。この時すでに正午が近く、気温はそこまでではないものの、日差しは強い。もちろん汗は止まらない。
道の駅でどう考えても値段のおかしいが味はよかったカレーをいただき、隣の展示館で百名城スタンプをゲット。どこぞの神社の愛想の悪い巫女さんと違って、ここのスタンプを管理されている方は、こちらが館内に入った瞬間、スタンプを出してくれてて面白かったwそんなにスタンプを求めてますって顔だったかねw
その管理人さんがスタンプ以外関心ないですよね的な空気を醸し出していたので、少々関心もあったことから、この館内の展示をざっと見て、ついに月山富田城へ登り始める。

尼子経久像。あんたこそが大将!>


<飯梨川。かなりの川幅>


最初、登り口から20分とか確か百名城のガイドブックに書いてあったので、余裕だろうと思っていたのだが、それはあくまでも山麓の山中御殿から山頂の本丸まで、ということだったよう。
この道の駅から一途山頂を目指したとしても、登りは片道40分はかかるような気がする。特に、山中御殿から山頂に至る七曲りと言われる急な石段は、足腰にかなりいい感じの負担になるので、登ったら休憩を入れたくなること請け合い。自分が登ったときも、登り終えて二の丸で休んでいたら、お爺さんが息を切らして登ってきて、「そこ(本丸)で終わり(ゴール)ですか?」とか尋ねられたほど。
とはいえ、この七曲りよりも、前日の鳥取城の方がきつかったが…

城については、まあこれは落ちないわな…という印象。
城の構造は、西に川を控え、山麓から山中御殿までの尾根筋に大規模な郭をいくつも連郭式に配し、山中御殿から急な傾斜を経て(この登り部分が七曲り)、三の丸から本丸に至るようになっている。そして、山中御殿から上の七曲りとかこんなとこ力攻めで攻略するのは不可能だろう…と。どうやら搦め手を除き、七曲り以外から本丸へ至ることはできないようだし、山頂から見る限り、この月山はかなり急峻な尾根の上にあるようなので、これは本当に難攻不落。前日の鳥取城とどうしても比較してしまうが、鳥取城が久松山全体を要塞化しているのに対し、この月山富田城は、城部分だけを見ると、そこまで大規模とは思われないけれども、少なくともこの本丸部分については傾斜がきつく、鳥取城に比して攻めにくいように思われた。

とはいえ、七曲りより上の山頂部分は、面積はそう大きくなく、収容できる兵力には限界があり、ここで籠城したとしても、少なくとも城からの反撃可能性はないと思われる。もちろん籠城というのは、後詰あってのものなので、いずれにせよ城からの反撃というのはあまりないのだが、この部分だけで籠城しても、この城自体による影響力は知れているかな、と。しかし、七曲りで尼子勢と毛利勢が合戦しているという記録があったので、ここより上の部分だけで守っていたこともあったようである。

月山富田城全体としては、確かに大規模な山城だが、難攻不落と言われるのは、尼子十砦と言われる支城群との連携があってであるようにも思われる。もちろん、城自体も、特に山中御殿北西部の大手門外部がかなり改変されているようで、地形がはっきりとはしないし北東部の新宮谷への尾根筋上にも郭があっただろうから、ちょっと見ただけの自分が評価するのもどうかと思うのだが。

月山富田城概観図>


城は、山麓→厳倉寺→千畳平→太鼓壇→花の壇→山中御殿→七曲り→本丸→山中御殿→大手門跡→山麓という順に回り、時間が少々余ったので、新宮の方向へ歩き、城安寺という山門の立派なお寺を見た後、市民病院のバス停へ。ここで座ってると、病院の工事をしているおじさんたちの話が聞こえてきたのだが、これが半分以上何を言っているかわからない。出雲訛かどうかすらもよくわからないが、何となく福岡の筑豊訛に近いような気がした。たぶん勘違いだが。

<千畳平>

山中鹿介像>

<花の壇と山中御殿の間の堀切と思しきもの>

<山中御殿。石垣はおそらく堀尾氏時代>

<七曲り>

<三の丸石垣。ここが一番の見どころかもしれない。石を節約するため間に土塁が挟んであるが、こういうのは珍しいような気がする>

<二の丸からの眺望。尼子勢はここから大内や毛利の大軍を眺めたのだろう>

<軍事用のため池。こんな水飲んでたとかどういう胃腸だよ>

結局、城を中心として広瀬町を四時間余り巡り、安来駅へ。この日一日でだいぶ日焼けした。安来駅では電車が来るまで、駅前のローソンで適当にアイス食べたり、駅構内のお土産屋でお土産買ったり。電車で連れと合流。

次に向かうのは松江。途中中海が見えた。
松江に着いたのは午後四時半前。松江城天守閣が午後五時半までだったので、急いで宍道湖畔のホテルへ*7。ここは客室から宍道湖や、宍道湖から中海へ流れ込む川にかかった橋が見えるというなかなかの立地。少々設備は古いが、十分満足できる施設。温泉もあるらしく、ここは宍道湖を展望できるらしい。自分は疲れていたので部屋で済ませてしまったのでわからないが、連れがそう言っていた。

<ホテルからの景色>

<夜景>


ホテルで荷物を置いていざ松江城へと思っていたら、ホテルで貰ったビラによると、今松江では灯篭祭りみたいなものをやっていて、夜間天守開放のため時間延長中なんだとか。とはいえ、暗くなって天守が見えなくなってはどうしようもないということで、ホテルでレンタサイクルを借り、お城へ向かう。

この松江城、感想を一言で言うと、国宝にすべき。松本城が国宝なら松江城も国宝でいい。松江城は、特に南側の堀の残りがいいし、主郭の石垣が絶品。近代城郭にはそう興味がない自分だったが、ここの天守の武骨なただずまいは素晴らしかった。特に、二の丸南東部から見上げる天守は絶品。
天守からは宍道湖を一望でき、最近天守に登りすぎていて*8あまりグッと来なくなっていた自分も、これは悪くない、という印象。まあ山頂からの眺めについては、平城が山城に勝てるわけがないわけで…

松江城南側の堀>

松江城天守松本城が武骨とかいう奴は出直せと言わんばかり。そして噂の牛蒡積みの天守台>

天守を楽しんだ後は、天守で百名城スタンプを忘れずにいただいた後、天守内部でちょっと買い物をして、お城北側を散策。そんで先ほどのビラに書いてあった、お堀の夜間川下り(川下りではなくて堀巡りというべきか)をするため、乗り場へ歩いていく。この北側は、色んなお土産屋さんなどが多くあり、しかもその道端に灯篭がずっと並んでいるものだから、なかなか情緒溢れる雰囲気である。松江市もこのイベントのために、街灯を消灯しているというのだから素晴らしい。

また、これもまた全く知らなかったのだが、松江は水の都であるらしく、町の中には多くの堀や川が巡っていることから、これを観光資源として利用しているらしい。これが大都会だとさっさと埋め立てたり暗渠化してしまうのだろうが、きちんと残っているのは観光客的にはうれしい。

船の乗り場では、お土産屋さんや、地元の名産品を使った焼き物屋などが香ばしい香りを拡散させており、歩きまくって空腹に耐えかねていた自分を誘惑する。が、連れがさっさと船に乗るよ的な感じなのであきらめて船へ。
船から見る景色が素晴らしいのは言うまでもないが、それを表現するほどの文章力が自分にないのも言うまでもない。連れは「別にベネチアに行く必要ないよね」と言っていたので、それくらい素晴らしかったということだと思われる。

<夜の灯篭と堀。なんという組み合わせ>

十分ほどの川下りを楽しんだ後城東側の船着き場では、堀に特設水上ステージが設けられており、ここで琴の演奏が行われていた。また、その周りでは二十ほどの屋台がこれまた香ばしい香りを発している。演奏を無料で聴けたり、こういったお祭りを、こんな素晴らしい眺めを享受できる松江市民は自分たちの幸せさを認識すべきだと思うよ(何様だよと

<水上特設ステージ>

ひとしきりぶらぶらした後は、ついにお待ちかねの夕食へ。
夕食はしじみ食わずに松江を去るのは小学校時代の社会の教科書に失礼だという僕の主張のもと、「季節の風 蔵」*9さんへ。しじみ丼としらす丼をいただいたが、どちらも絶品。しかし他のHPで言われているほど米が美味しいとは思わなかったのだが、これはおそらく米農家出身のせいなんだろう。というか、今まで外でご飯食べて米がうまいと思ったことがない。しかししらすしじみもうまかった。

しじみ丼>

しらす丼

夕食後は、さっさとホテルへ戻り、自転車を返して寝るか、と思ったが、あまりにも宍道湖周り景色が綺麗なので、ちょっと湖畔でぼーっとしてからホテルに戻ってさっさと寝た。

宍道湖畔の夜景>

そういえばこの日は誕生日で、そのことを月山富田城の本丸で「尼子なう!」とかわけわからんツイートをしているときに思い出した。誕生日を山城で過ごせるとか幸せすぎると思っているアラサー。ありなのかね。


136513

*1:連れを月山富田に連れて行くわけにはいかないので。境港に行ったらしいです

*2:直前に鈍行で行った松本の方が、新幹線と特急で行く鳥取より乗車時間は長い

*3:水木さんの奥さん安来市のご出身

*4:僕は城自体だけではなく、城の周りの地形まで含めて城を見るのが好きなので、時間配分をきちんとやらないと、城に登らずに時間切れとかなりがちw

*5:新宮党とは、尼子氏一族中、軍事面の中心をになったとされる一党。要するに武闘派。尼子久幸等名将が多く出たが、国久・誠久の頃に、経久の孫である当主晴久に粛清された。山中鹿介が尼子氏復興に担ぎあげたのは、誠久の子勝久である。当時、晴久の子で、尼子本家の義久は毛利氏により監禁されていた。なお、新宮党とは、月山の北部の新宮谷に館を設けたことによるネーミングである

*6:皇帝存命中なのに自分が皇帝になっちゃったり、ブチ切れて将来のことを考えない作戦を開始しちゃったあの人です

*7:お世話になったのは松江ニューアーバンホテルさん(http://new.matsue-urban.co.jp/

*8:八月の掛川、九月に松本

*9:季節の風 蔵さん(http://www.kaze-kura.jp/