いじめについて

いじめについて。多少の昔話も。

子供*1にとって「いじめ」というのは、経済的・精神的に自立している大人が受けるのに比べて非常に辛い。「いじめ」というと中身が判然としない*2が、たとえば、そのうちに含まれると思われる、周囲による仲間はずれ或いはそれを超えた嫌がらせというの一つをとってみればすぐにわかると思う。


子供にとって、世界は基本的には学校と家庭の往復に、あとはせいぜい塾ぐらい。つまり、一日24時間のうち睡眠時間を除けば世界は半分が学校で過ごすことになる。つまり、その学校で仲間外れにされると、世界は一瞬でその子供にとって生きにくいものとなる。さらに、家庭で親とうまくいっていなかったり、塾にも友達がいなかったりした日にはもう、世界はその子供にとっては味方がいない状態になってしまう。そうすれば、毎日が辛く、生きる意味を見いだせなくなってしまい、世界に絶望するだろう*3
さらに、世界に絶望した子供は、世界は敵しかいないと思うようになるかもしれない。そうすると、子供は、自らの中に閉じこもり、世界に心を開くなるだろう。また、気丈な子供ほど、周囲に仲間外れにされているのにそれを隠し、敵である世界に気付かれないようにするだろう。つまり、その子供は、仲間外れにされていることを他者に漏らすこともなく、絶望と一人格闘することになってしまうだろう。


当たり前だが、生きる意味がない・見いだせないというのは非常につらい。
人間社会は基本的に色々大変なので、生きる意味がないとなると、特に生き続ける理由はない。おそらく人はそういう状態になっても、動物的本能(欲望)に忠実になれば生きていけるのかもしれないが、なまじ賢しいとそれだけではむなしさしか感じないだろうし、子供は大人に比べて欲望が弱いということもあるだろうから、そういう人間の前には死というのは非常に魅力的に映るだろう。


一般的には自分にとって大切な人間(親、妻子、彼女、親友等)がいれば、その人たちのためにも死ねないと考えることが多少なりとも抑止力になるのかもしれないが、それもまだ妻子や彼女がいないであろう子供にとってはあまり期待できないし、特に家庭で親とあまりうまくいっていない子供だったりすれば作用しないだろう。

だからこそ、そういった絶望的な状態において、その子供の世界の周縁または外部から子供に手を差し伸べる機関が必要だと思う。
それはおそらく、新聞でいじめられている君へというのを呼び掛けるだけでは足りない。とはいえ、教育の専門家ではない自分には何がいいのかはわからないが、絶望している子供というのは、世界は敵ばかりだと思っていて周囲には不信感しか抱いていないから、そういう子供にいじめをカミングアウトさせるのは非常に難しいので、解決策は一つではないだろう。ACがいじめられている子供のSOSダイヤル*4についてアナウンスするというのもあるだろうし、家庭学校問わず、周囲の大人が常に子供に気を配るというのもあるだろう。担任以外の先生、たとえば保健室の先生なんかが助けになることもあるだろう。とにかく、世界は敵しかいないと思っていない子供には、カミングアウトをするのが非常に難しいということを前提にした対策が必要だと思う。


なんで急にこんなことを書き始めたのか。
これを書くかどうかは少しだけ躊躇したが、私も「いじめ」を受けた経験があるからだ。


私がいじめを受けたのは、小学校六年の頃だった。もう15年くらい前のことだ。私は小学校三年から五年までの三年間、海外の小学校に通っていたため、日本の小学校に長期間通うというのは久々だった。その小学校は、いわゆるドーナツ化現象によって人口が減っている地域の学校であり、一学年二クラスの小さな学校だった。だから、当初は珍しい転校生と言うことで歓迎されたし、クラスメイトもたいてい「いい子」だった。学級崩壊といったものもなく、小さな学校の中でうまくまとまっていたと言えると思う。生徒は、変なところで熱い男性担任のことを冷めた目で見てはいたものの、別にそれ以上のこともなかった。

そんなクラスで私がいじめられるようになったのは、確か転校してから三ヶ月くらい経ってからだったと思う。
いじめられた原因は明白で、一言で言うと「空気が読めない」ことだった。

一般に海外で幼年期・青年期を過ごした帰国子女と言うのは、日本になじみにくいところがあると思うが、特に小学校中学年を日本で過ごしていないと言うのは、日本社会でやっていく上で物凄いハンデになるように思う。私は日本にいた小学校二年までは何らいじめを受けず過ごしていたし、三歳年下の兄弟、つまり小学校三年から日本に戻った兄弟は、いじめを受けていない。個人的な人格の差はあるにせよ、やはり小学校中学年から高学年と言う、日本社会になじむべき大切な時期を海外で過ごすということは、日本における社会性を身につける上で非常に不利な条件だったのだ。しかし、そんなことには私の両親も、もちろん私自身も気付けていなかった。


最初は、だんだん周りが私と話をしてくれなくなるところから始まった。
次に、周りが陰口をたたくようになった。
そして、一部の女の子が私のことを「触れると汚れる」のようなことを言い始め、避けるようになった。たとえば、プリントを提出するときに、私が教卓に並ぶと、後ろには誰も並ばないようになった。プールで私が泳いでいる途中にプールサイドにキャップを投げ捨てると、誰もがよけた。
その流れはすぐに拡張し、クラスのほぼ全員がそれに同調した。更には、あまり絡んだことがない隣のクラスの生徒までがそれに便乗した。
多少は仲が良かった友人らしき生徒も、遊ぶ約束をしようとしても理由をつけて断るようになった。結局、クラスで口をきけるのは2人程度となった。


当初は、私には塾という世界があったのでどうでもよかったし、当時シャ乱Qにも安室にもポケモンにも興味がなかった自分は、別にクラスメイトと話も合わなかったので、話す必要も感じておらず、うっとうしいと思うくらいだった。
しかし、その状態が確か3カ月くらい続き、ついに、上の2人も同調した。それがどうやら致命的だったようだ。そこからは相当しんどかった。当時マンションの5階の角部屋が自分の部屋だった私は、窓から下を覗きこみ、自分にこういうことをしている連中の名前を書き残して飛び降りたらどうなるだろう、復讐になるだろうかなんてことを何度も考えていた。特に、高さがわからなくなる真夜中の暗さは魅力的だった。あの風景は今でも覚えている。


結局、私は親に上のような事情をカミングアウトした。親は私がそういう状況だったのにはまったく気づいていなかったのでだいぶ衝撃を受けたようだったが、すぐに担任に連絡し、担任もすぐに対応してくれた。担任は上のような周囲の行為の一部には気づいていたが、それが「いじめ」と言われるほど深刻なものだということは認識していなかった。

そして、担任は、クラスメイトからアンケートを取り、意見を聴取したようだった。すると、生徒の中には、我々も悪いが私にも悪いところがあると書いた人もいた。しかし、当時の自分はそういう意見を聞き入れられず、いじめた奴が悪いに決まっていると思っていた。担任も凄く対応に苦慮されたと思う。しかし、クラスメイトにも私にも一生懸命説得をしてくださった。

そういうことがあって、クラスの空気は私に対して、触らぬ神にはたたりなしという感じになり、私の方もなめられたらまずいと思うようになった。一時期は鞄の中に肥後守を入れていたし、それをクラスメイトの一部にあえてひけらかし、「あいつは危ない奴」と印象付けるようにしたこともあったように思う。それくらい追いつめられていたし、学校ではどうすればやられないかということだけ考えていた。正直言って、小学校6年生の1年間は今までの私の人生の中で最も真っ暗だった。


たぶんこの程度の仕打ちを受けたことがある人はそれなりにいるんじゃないかと思うけども、あまり世の中でそういう仕打ちを受けた話は出回っていないようなのであえてここで書いてみた。
私の場合は、そういう事態に直面したのが時期的に反抗的に重なっていたものの、幸いにも親との関係が良好だったので、カミングアウトすることができたし、親は私を守ろうとしてくれた。また、担任も、すぐに対応してくれたし、クラスメイトも「いい子」だったので、担任の介入で終結したという幸運もあった。しかし、それがなかったらどうなっていただろう。ひょっとしたら窓の外という甘い誘惑に乗っていたのかもしれない。

今となってみれば、私が受けた仕打ちは、単純に私が空気が読めなくて招いたことで、上の「私も悪い」という意見もかなり正しいと思っているけど、当時はそもそも空気を読むというカルチャーを知らなかったのでどうしようもなかった。また、私は今でも普段の自分の表情が硬いことや、コミュニケーション能力に偏りがあるのも後遺症なんじゃないかと思っている。今でも、あの小学校の建物や雰囲気を思い出すと吐き気がするし、卒業以来金輪際あの小学校には近寄っていないし、1人をのぞき小学校の同級生とは会っていない。


とはいえ、一方で、私は、私がされた周りの行為は自然なものだとも思う。もちろん、私に向かってお前の行為・発言は間違っているとか、空気読めと指摘してくれる人がいればよかったのだろうが、大人の社会でもそんな人間はめったにいないのだから、子供がそんなことをするわけもない。そうすると、ダメ出しはしないが、私と話す・絡むとイライラするから仲間外れにするというのは自然だろうし、それが面白半分でエスカレートしうるのもよくわかる。さらに、周りも利益衡量をすれば同調した方がいいに決まっているので、同調ないし第三者になるのも当たり前のことだ*5

つまり、いじめというものが子供の社会でふつうに生じうるものだという認識こそが大事なのであって、いじめの存在をあってはならないものだという意見には賛成できない。子供だって小さな大人であって、そこには立派な社会があるのだから、子供社会の人間関係上の問題として対応すべきものであって、いじめは頭ごなしに否定すべきものではなく、それによる弊害にまず対応し、ひいては件数を減らしていくべきものだろう。大人の社会でいじめ類似の状況に陥ったとき、自分が周囲を敵に回すリスクを取ってまでそのいじめを受けている人間を救おうと思える大人がどれだけいるだろうか。子供社会も同じことである。いないなら、何らかの手当てをしなければならない。子供は大人と違い自分の意思で別の社会に移ることができないのだから。


最後に、誰に呼びかけるでもなく、自己満足としての文章を書くが、最近のいじめが原因とされる自殺を見ると、本当にその前に止められなかったのはなぜなのだろうかと心から思う。
私は子供社会を何とか生き抜き、それなりにグダグダだったが何とか年齢的には大人になった。歳を重ねるにつれ、自分が仮に今死ぬとどうなるかとか、自分が何のために生きるのかといったことを考えられるようになったし、自分の個としての存在は他者との関係性の中で生きていると思うようになって、死ぬなんて思いもしなくなった。
だからこそ、いじめられていたって生き続けてほしい。ただ、こういうことを言う自分は、その死にたいと思っている人のことを一ミリも理解していないこともわかっている。だからこそ、呼びかけだけではなく、具体的な対応策をしっかり検討してほしい。


最後の一文が自分がやる気がない投げやりな文章で締めなのが残念ですが、とりあえずこの辺でいったん終わります。


366909

*1:ここでは子供とはだいたい中学生くらいを想定している。

*2:だから問題がぼやけてしまう面も否定できないと思っています。

*3:また、その子供にとっての人格形成にとって欠かせないコミュニケーションや自己肯定等ができなくなってしまうだろう。これは、その子供に一般的に言われるのとは異なる傷跡をもたらすものと勝手に思っている。

*4:こういう取り組みをしている地方自治体もあるようです。岐阜県高山市http://www.city.takayama.lg.jp/gakkoukyouiku/ijimesos.html

*5:そういうことに中学2年くらいに気づき、私は「空気を読む」というカルチャーを知ったし、今となってはクラスメイトを恨む思いはない。この文章も当然だが、恨みを晴らすという趣旨は全く含んでいない。