僕は一生桜を嫌うだろう

東京で桜が咲き始めた一ヶ月前、大学時代の親友が急逝しました。

今まで生きてきた中で、これほどまでに世界の不条理さを体感したことは無く、ここまでの悲しみや悔しさを覚えたこともありませんでした。
ここまでの涙を流したことはありませんでした。嗚咽というものがどういうものかを知ることもありませんでした。

友人は、将来を嘱望されていた秀才であり、彼を失ったことは日本にとっての損失であることは言うまでもありません。
しかし、それよりも、私からすれば、

その気高さは、私の暑苦しい夢物語を受け止めてくれる稀有な友人として、
その真摯さは、悩みを打ち明けると正面から向き合って親身に相談に応じてくれる誠実な人格として、
その賢明さは、負けず嫌いな私にとって挑戦すべきライバルとして、
何より、その熱い思いは、将来きっと一緒に社会へ貢献できる同志として、

彼は存在していました。

私が初めて読んだ基本書は、彼に勧められた大塚仁先生であり、
私の法的思考回路の基礎は、彼との対話によって作られたものであり、
私の法曹という進路選択について、真剣に考え、阻止しようとしたのも彼だけであり、
ひいては私の人生への向き合い方をも変えたのは彼でした。

彼との付き合いは10年、20年のものになる、そう思っていました。

一ヶ月という時間は、悲しみと悔しさの多くの部分を寂しさに昇華させましたが、彼と過ごし、語り合った時間は既に私の中にしかないという事実は、非常に受け入れがたい。人は自分の人格を他者との関係の中で構築しているといいますが、まさに、彼との関係における私の人格は、あまりにも唐突に奪われてしまったのです。なぜ彼なのか、なぜ彼なのか、なぜ彼なのかという思いは、いくら考えても無駄だと分かっていても、何度も何度も湧き上がってきます。

彼は偉大な男で、きっと私のみならず、多くの人々の心の中で生きていくでしょう。
私も、そのうちの一人として、彼のことを記憶していくでしょう。
そうするしかないと思っていても、むなしさと寂しさは抑えきれないのです。

桜は永遠に悲しみの象徴に。