「お察しください」

極めて感覚的な話を書く。

日本人、正確には日本の文化で育った人たちは、意見を直言しない傾向が強い。「言わずもがな」の文化とでも言えばいいのだろうか。だから、リーダーは基本的に、その統括するグループの構成員の「言わずもがな」の意見を看取する能力に長けている必要がある。また、構成員も、社会の中で知らず知らずに身につく同一性・均質性を前提としたコミュニケーションを身に着ける。このようなコミュニケーションができる人間が日本では「大人」と評価される。日本人の多くは多感なのである。

たとえば、漢籍の話だが、貞観政要で太宗の臣である魏徴が太宗に対して頭を垂れて述べた「ただ願わくは、陛下、臣をして良臣とならしめよ。臣をして忠臣とならしむるなかれ。」という言葉がある。魏徴の含みは、良臣というのは繁栄する君主の下で称賛される家臣を言うが、忠臣というのは、悪君の下で忠言したのに誅殺されるような家臣を言うということである。これくらいのニュアンスが丁度いいのである*1。ここで面と向かって「あなたは間違っている」と言って大声を張り上げるのは大人ではない。

一方、そのような「言わずもがな」の文化へのカウンターなのか、あるいは、そういう文化ゆえに、反逆児が愛されるのか、いつからか直言居士が流行るようになった。みんなが思っているが言えないことをズバッと言う。これが持てはやされるようになった。最初はそういう人たちは、流行るからやっていたのかもしれない。つまり、流行を読むという意味で多感な人が、何らかの目的で直言居士を装っていたのだろう。しかし、いつからか、偽装されたものではなく、真正の直言居士が蔓延るようになってきたようだ。これに加えて、直言居士をよしとする人たちも増えているようだ。

本来これは日本の文化の主流ではなかったのではないかと思う。多感な人たちは、皆まで言わずとも察知できるから、思っていることを全部言う必要はなかったし、やっていいこと悪いことも、言わなくてもわかるはずだった。大人の社会では、ルールは表向きのルールブックには書かれていないのである。

たとえば、先輩と食事に行ってご馳走になる。その際にレジで先輩が会計をするのを見ていたら、マナー違反である。あるいは、お堅い職場で客前に出る一年目の従業員が派手なネイルをしていたら、おそらく評価は下がる方向に働く。これらは、多くの場合、ルールブックには書かれていない。それがわからないと、或いは、それを注意してくれる大人がいないと、その人間は永遠に大人になれないし、大人の間で軽んじられる。これは日本社会の一つの恐ろしいところではあるが、別にこのような構造は他文化においても同様にある。

さて、日本では、大人にしか見えないルールがあるのだが、真正の直言居士はこれが見えない。とりわけ質が悪いのは、彼らは得てして大人の評価すら見えないことである。そして、大人は大人ゆえに、これをたしなめないのである。あるいは、悪い大人は、真正直言居士と結託することで得られる利益を優先するのである。そうするとどうなるか。真正直言居士の真正直言居士による真正直言居士のための世界の完成である。

日本の社会制度においては、不文律が一定の意味を有していた。それは、社会で影響力を有する人たちが大人であることを前提にしていたのだろう。大人であれば、不文律を読解するし、その重要性も理解できるのである。そういえば不文律の類語は紳士協定であった。

しかし、真正直言居士は、不文律が見えない。だから重要性も理解できない。そうすると、不文律でない書いてあるルールしか気にしない。不文律の機微なんて読み取れないのである。

こうして、日本社会は、真正直言居士の支配するものとなる。そして、過ちを繰り返す。

*1:ただし、太宗は魏徴に対し、良臣と忠臣は何が違うのか聞き、魏徴はこれを説明している。