井波律子先生の逝去を悼む

2020年5月13日、井波律子先生が逝去された。
初めて井波先生の本に接したのは、大学生の時に読んだちくまの正史三国志であった。当時私は貧乏学生で、通常の新書の倍の値段がすることもあって、好きな人物について立ち読みをしていたのだが、最後には我慢できなくなって曹操が載っている魏書だけ買った。白文を読む能力がない私にとって、井波先生は、漢籍に接させてくれる有難い指導者だった。私は先生にお会いしたことすらないが、勝手に自分の人生における師匠の一人のように思っていた。
 
正史三国志もそうだが、とにかく井波先生の翻訳は読みやすく、文章も美しい。たとえば、ご著書の「完訳 論語」は、前書きの文章が引き締まった名文で、どうやったらこういう文章が書けるのだろうと思わされた。同書は、私が人生に悩んだときに買った一冊で、私の自宅の机のすぐ横に置いてあり、疲れたときは手に取っている。読書は著者との会話と言われるが、楽しい会話ができるかはその人の文章次第で、文章は人格の顕れだと思う。井波先生の文章は、優しさにあふれていて、読んでいて励まされるものだった。
 
心よりお悔やみ申し上げたい。 

検察OB有志の意見書のまとめー「司法の前衛」たる矜持

本年5月15日、元検事総長を含む検察OB有志の14名が、法務省に対し、東京高検検事長の定年延長について意見書を提出しました。検察OBがこのような連名での提出をするのは極めて異例のようで、世間では色んな評価がされています。

ところで、朝日新聞のウェブ記事*1において、意見書の全文が掲載されていました。この内容を読んだところ、法律家の意見書として非常に力強く、かつ、検察OBの矜持を各所に感じる名文だと感じました。私は検察官が100%正義であるとは思いませんが、それであっても、たとえば、検察官は「司法の前衛たる役割を担っている」とか、「正しいことが正しく行われる国家社会でなくてはならない」といった言葉には率直に感銘を受けました。

とはいえ、この意見書は、内容が格調高く、行間を読むことも必要になる文章で、一般の方からすると読みにくいきらいもあるかもしれません。そこで、以下に私なりにまとめてみました。これを参考にして、ロッキード事件にかかわった検察OBの矜持あふれる意見書全文を、ぜひ読んでいただきたいと思います。

 

主張1:東京高検検事長黒川氏の定年延長は法的根拠がない

その理由:

  1. 黒川氏の定年延長は検察庁法に基づいていない。法律に拠らずに行ったもので不当である。
  2. 内閣は、検察官にも国家公務員法が適用されるとして、国家公務員法に基づく定年延長を主張する。しかし、この主張は、以下の理由により、間違っている。
  • 検察庁法は、国家公務員法に優先する法律であり、定年については検察庁法に規定がある。したがって、国家公務員法の定年の規定が検察官に適用されることはない。なお、政府も従来このように解釈していたし、過去にはそれと違う運用がされたことは一度もない。
  • 検察官は、起訴の権限を独占しているし、捜査権を持っている。また、政財界も捜査の対象とする。その意味で、検察官は準司法官と言われ、司法の前衛の役割を担う。そのような特殊性から、検察庁法という検察官の身分を保障する特別法が定められ、検察官に一般の国家公務員とは異なる制度が用意されている。したがって、検察官に国家公務員法が適用されることはない。

 

主張2:本年2月14日の安倍総理がした国家公務員法が検察官にも適用されるとした解釈変更は不当である

その理由:

  1. これは内閣の解釈で法律の解釈運用を変更したものだが、国会の権限である法律改正の手続きを経ずに、このような解釈変更するのは危険である。本来なら国会での法改正によるべきである。
  2. このような解釈変更は、フランス絶対王政を確立したルイ14世の「私は国家である」という言葉を思い出させるような、越権行為である。
  3. ジョン・ロックは「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告しており、このような警告を念頭に置かなければならない。

 

主張3:仮に変更後の解釈が正しくても、黒川氏の定年延長をする法律上の要件が充たされていないので、定年延長は不当である

その理由:

  1. 仮に国家公務員法が検察官に適用されるとしても、定年延長には、余人をもって代えがたいというような理由が必要である。
  2. しかし、黒川氏でないと対応できないような事案があるとは思えない。引き合いに出されるゴーン被告逃亡事件であっても、黒川氏でないと対応できないとは考えられない。
  3. 余人をもって代えがたいというのは、新型コロナウイルスの流行を収束させるために必死に調査研究を続けている専門家チームのリーダーで後継者がすぐに見つからないような場合くらいではないか。

 

主張4:次長検事検事長の定年延長を可能にする法改正は検察人事への政治権力の介入であり不当である

法改正の内容:

  1. 今回の法改正で、次長検事検事長は、63歳の職務定年の年齢になっても、内閣が必要と考えれば、内閣の裁量で、1年以内の範囲で定年延長ができるとするものだ。

法改正が不当な理由:

  1. 政界と検察の間では、検察官の人事に政治は介入しないという確立した慣習があり、これは「検察を政治の影響から切り離すための知恵」とされている。しかし、以上の法改正は、この慣習を破るものである。その意図は、検察の人事に政治権力が介入することを正当化し、政権の意に沿わない検察の動きを封じ込め、検察の力を抑えることにあると考えられる。
  2. 検察庁法は、もともと、組織の長に事故があったり、欠けたときに備えて臨時職務代行の制度を設けている。このことからすると、定年延長という制度は想定されていなかった。今回の法改正はこのような検察庁法の原理に反する。

 

主張5:今回の法改正がされると、検察は国民の期待に応えられなくなる

その理由:

  1. ロッキード事件が報道されたときに、東京高検検事長の神谷氏は「いまこの事件の疑惑解明に着手しなければ検察は今後20年間国民の信頼を失う」と述べ、ロッキード事件の方針が決定し、田中元首相の逮捕まで至った。
  2. このような展開になったのは、当時の政治家が、捜査への政治的介入に抑制的だったことにある。
  3. 検察の歴史の中では、捜査幹部が押収資料を改ざんするという恥ずべき事件もある。現役検事たちが、これがトラウマで育っていないのではないかという思い委もあるが、検察は強い権力を持つ組織として謙虚でなければならない。
  4. しかし、検察が委縮して人事権を政権に握られ、起訴・不起訴の決定までコントロールされるようになると、検察は国民の期待に応えられない。正しいことが正しく行われる国家社会でなくてはならない。

 

結論:

  1. 黒川氏の定年延長及びその後の法改正は検察の組織を弱体化して時の政権の意のままに動く組織に改編させようとするものであって、見過ごせない。内閣は法改正を潔く撤回すべきである。
  2. 撤回されないなら、与野党の境界を超えて多くの国会議員、法曹、心ある国民すべてが、法改正に断固反対の声を上げて阻止する行動に出ることを期待する。

 

意見とりまとめ者(清水勇男氏)の追記:

  1. この意見書は、本来は広く心ある元検察官多数に呼びかけて協議を重ねてまとめるべきであった。しかし、法改正の審議がされるという差し迫った状況下で、意見のとりまとめに当たる私は既に85歳の高齢に加えて疾病により身体の自由を大きく失っていることもあり、少数の親しい先輩と友人に呼び掛けて起案した。
  2. 更に広く呼びかければ賛同者も多く集まり、連名者も増えると思うが残念である。

 

「お察しください」

極めて感覚的な話を書く。

日本人、正確には日本の文化で育った人たちは、意見を直言しない傾向が強い。「言わずもがな」の文化とでも言えばいいのだろうか。だから、リーダーは基本的に、その統括するグループの構成員の「言わずもがな」の意見を看取する能力に長けている必要がある。また、構成員も、社会の中で知らず知らずに身につく同一性・均質性を前提としたコミュニケーションを身に着ける。このようなコミュニケーションができる人間が日本では「大人」と評価される。日本人の多くは多感なのである。

たとえば、漢籍の話だが、貞観政要で太宗の臣である魏徴が太宗に対して頭を垂れて述べた「ただ願わくは、陛下、臣をして良臣とならしめよ。臣をして忠臣とならしむるなかれ。」という言葉がある。魏徴の含みは、良臣というのは繁栄する君主の下で称賛される家臣を言うが、忠臣というのは、悪君の下で忠言したのに誅殺されるような家臣を言うということである。これくらいのニュアンスが丁度いいのである*1。ここで面と向かって「あなたは間違っている」と言って大声を張り上げるのは大人ではない。

一方、そのような「言わずもがな」の文化へのカウンターなのか、あるいは、そういう文化ゆえに、反逆児が愛されるのか、いつからか直言居士が流行るようになった。みんなが思っているが言えないことをズバッと言う。これが持てはやされるようになった。最初はそういう人たちは、流行るからやっていたのかもしれない。つまり、流行を読むという意味で多感な人が、何らかの目的で直言居士を装っていたのだろう。しかし、いつからか、偽装されたものではなく、真正の直言居士が蔓延るようになってきたようだ。これに加えて、直言居士をよしとする人たちも増えているようだ。

本来これは日本の文化の主流ではなかったのではないかと思う。多感な人たちは、皆まで言わずとも察知できるから、思っていることを全部言う必要はなかったし、やっていいこと悪いことも、言わなくてもわかるはずだった。大人の社会では、ルールは表向きのルールブックには書かれていないのである。

たとえば、先輩と食事に行ってご馳走になる。その際にレジで先輩が会計をするのを見ていたら、マナー違反である。あるいは、お堅い職場で客前に出る一年目の従業員が派手なネイルをしていたら、おそらく評価は下がる方向に働く。これらは、多くの場合、ルールブックには書かれていない。それがわからないと、或いは、それを注意してくれる大人がいないと、その人間は永遠に大人になれないし、大人の間で軽んじられる。これは日本社会の一つの恐ろしいところではあるが、別にこのような構造は他文化においても同様にある。

さて、日本では、大人にしか見えないルールがあるのだが、真正の直言居士はこれが見えない。とりわけ質が悪いのは、彼らは得てして大人の評価すら見えないことである。そして、大人は大人ゆえに、これをたしなめないのである。あるいは、悪い大人は、真正直言居士と結託することで得られる利益を優先するのである。そうするとどうなるか。真正直言居士の真正直言居士による真正直言居士のための世界の完成である。

日本の社会制度においては、不文律が一定の意味を有していた。それは、社会で影響力を有する人たちが大人であることを前提にしていたのだろう。大人であれば、不文律を読解するし、その重要性も理解できるのである。そういえば不文律の類語は紳士協定であった。

しかし、真正直言居士は、不文律が見えない。だから重要性も理解できない。そうすると、不文律でない書いてあるルールしか気にしない。不文律の機微なんて読み取れないのである。

こうして、日本社会は、真正直言居士の支配するものとなる。そして、過ちを繰り返す。

*1:ただし、太宗は魏徴に対し、良臣と忠臣は何が違うのか聞き、魏徴はこれを説明している。

「令和」で感じたこと

新しい元号の「令和」が発表されて1週間。この1週間は、私にとって、この国を憂うには十分な期間でした。

4月1日に、NHK元号発表の生放送をテレビの前で見ていた私が、最初に受けた印象を整理すると、「令和」というのは、和することを命令するという意味であり、書き下せば「和せしむ」になるのではないかということで、漢字が強烈だなということと、「令」という漢字は元号では見たことがないような気がするな、ということでした。

元号発表をNHKのスタジオで見守っていた本郷和人教授が、元号において令という漢字が使われたことはないように思うし、人名でも使われないと思われること、「和せしむ」と読めることを指摘され、微妙な表情をされていましたが、同じような思いでした。さて、それから一週間、保守を自認する私は、この元号についてつらつら考えていました。元号を重要視する人は減っているのでしょうが、私にとっては、自分の時を支配し、遠い将来において皇太子殿下の諡になり、歴史に刻まれる概念である以上、非常に重要なものなのです。その結果、私は、やはり、この元号に対する違和感を払拭できませんでした。

すなわち、令という漢字を見たときに、通常は「命令」が出てくるでしょうから、漢字としては強い印象を与えるものだと思います。過去に「令」が元号として使われたことがないのがその理由かどうかはわかりませんが、江戸時代に「令徳」が「徳川に命令する」と解釈し得ることから避けられたとの説がある*1ことからすれば、やはり「令」=「命令」と読めてしまうことは否定できないでしょう。いくら「令夫人」「令嬢」という単語があるといっても、「令」の後ろに「夫人」「嬢」といった名詞がつくパターンと、「和」という動詞がつくパターンを並列するのは少し無理があると思います。なお、安倍首相によれば、令和には「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味が込めたとされ、元号発表のその日の夜には、「令」は命令という意味ではなく、令嬢等のいい意味であると説明されていましたので*2、おそらく上のような突込みが入ることは想定していたのではないかという気もしますが、それでも躊躇わなかったということなのでしょう。そして、元号選定の過程で、「令」という漢字の強さに対し、誰も違和感を持たなかったか、指摘しなかったのでしょう。

この「和せしむ」について、平和にさせるという意味だからいいのではないかという言意見もあるようです。しかし、私の感覚では、和を命令するといえば、権力を有する者が、下の者に和平を命じたり、或いは、実力で天下を一統するようなイメージであり、積極的平和主義を謳うもののように感じられます。歴史上の人物で言えば、ヤマトタケル漢の武帝を想起します。このあたりは印象論なので、何を想起するかに個人差はあるでしょうけれども、そのような印象を与える元号にしたというのは、漢字に対する想像力が足りないのではないかと思わざるを得ません。

加えて言えば、元号という漢字をネイティブで読めるのは日本以外では、中華圏に限られるので、その辺りの印象も考慮に入れて頂きたかった。たとえば、中国人の友人複数に聞いたところでは、「令」は発音が「零」と通じるので、「和」がゼロという意味になりかねず、ネガティブな印象を持つようです。また、「令」にいい意味があるというのを知っている中国人も多くないようで、やはり命令というニュアンスを受けるとのことでした。台湾人の友人にはまだ印象は聞いていませんが、同じような印象を持たれる可能性を感じています。

他の元号の候補を見ると、「久化(きゅうか)」「英弘(えいこう)」「広至(こうし)」「万和(ばんな)」「万保(ばんぽう)」とされています。個人的には、「万和」が一番素晴らしいと思いますが、それ以外も特に問題を感じません*3。そんな中「令和」だけは、ニュアンスが強烈で、一つだけ浮いているように見えますので、なぜそれを選んだのか、全くわかりません。令和以外にも国書由来のものはあるようなので、漢籍を脱したかったなら、令和に拘らずともよかったと思います。

そして、初めての国書であるという説明も、すぐに、漢籍の影響があるとの指摘を受けています*4。成立時期を考えれば、漢籍の影響を受けていないはずはないでしょう。政府がこれを認識していたのかどうかは判然としませんが、このような指摘を受けるくらいなら、最初から、漢籍と国書の両方を踏まえたくらいの説明をすればよかったのにと思うところです。そうすれば、日中友好云々という説明もできたでしょう。

ところで、一時期いわゆる「きらきらネーム」というのが言われていましたが、これを漢字の意味・通常の読み方を離れた名前とするなら、今回の元号も同じにおいを感じます。「初春令月、気淑風和」ですが、春のよい日で風が気持ちいい、という程度で、全くメッセージ性を感じません…と思っていたのですが、昨日、品田教授の緊急寄稿とされる*5記事*6に接しました。これによれば、政府が意図していたかは別にして、令和には深い意味があるということになりそうです。この記事の中で、最も印象的だった部分を引用します。

これが、令和の代の人々に向けて発せられた大伴旅人のメッセージなのです。テキスト全体の底に権力者への嫌悪と敵愾心が潜められている。断わっておきますが、一部の字句を切り出しても全体がついて回ります。つまり「令和」の文字面は、テキスト全体を背負うことで安倍総理たちを痛
烈に皮肉っている格好なのです。もう一つ断わっておきますが、「命名者にそんな意図はない」という言い分は通りません。テキストというものはその性質上、作成者の意図しなかった情報を発生させることがままあるからです。
安倍総理ら政府関係者は次の三点を認識すべきでしょう。一つは、新年号「令和」が〈権力者の横暴を許さないし、忘れない〉というメッセージを自分たちに突き付けてくること。二つめは、この運動は『万葉集』がこの世に存在する限り決して収まらないこと。もう一つは、よりによってこんなテキストを新年号の典拠に選んでしまった自分たちはいとも迂闊であって、人の上に立つ資格などないということです(「迂闊」が読めないと困るのでルビを振りました)。

私は万葉集については全く詳しくないので、テキストの背景は知りませんでしたし、こういう意味を「令和」が持ちうるというのも想像していませんでした。しかし、こういうことがあるので、元号については由来をきちんと検討すべきということです。さすがに、そのような迂闊な決定をした方々が人の上に立つ資格がないとまでは思いませんが*7、「令和」は次代の天皇陛下の諡となり、畏れ多くもそれを政府が決定する訳ですから、この迂闊さは許容しがたいように思います。

最後に、いわゆる保守を自認される方々が、漢籍ではなく国書によるべきであるとの主張をされていることには失望を禁じ得ません。先に引用した毎日新聞の記事の中の以下の言及こそが保守の本来的認識ではないかと思いますし、古から渋沢栄一まで日本の知識人の知や倫理の骨格を形成していたのは間違いなく、むしろ、戦乱で荒れた中国大陸ではなく、日本においてこそその古典が生き残っていることを誇ってもいいのではないかとすら思います。

中国古典学の渡辺義浩・早稲田大教授は、文選の句について「意味は万葉集と基本的に同じ。文選は日本人が一番読んだ中国古典であり、それを元として万葉集の文ができていると考えるのが普通」と指摘する一方、「東アジアの知識人は皆読んでいた。ギリシャ、ローマの古典を欧州人が自分たちの古典というのと同じで、広い意味では日本の古典だ」と意義づける。

 中国古典学の渡辺義浩・早稲田大教授は、文選の句について「意味は万葉集と基本的に同じ。文選は日本人が一番読んだ中国古典であり、それを元として万葉集の文ができていると考えるのが普通」と指摘する一方、「東アジアの知識人は皆読んでいた。ギリシャ、ローマの古典を欧州人が自分たちの古典というのと同じで、広い意味では日本の古典だ」と意義づける。

中国古典学の渡辺義浩・早稲田大教授は、文選の句について「意味は万葉集と基本的に同じ。文選は日本人が一番読んだ中国古典であり、それを元として万葉集の文ができていると考えるのが普通」と指摘する一方、「東アジアの知識人は皆読んでいた。ギリシャ、ローマの古典を欧州人が自分たちの古典というのと同じで、広い意味では日本の古典だ」と意義づける。中国古典学の渡辺義浩・早稲田大教授は、文選の句について「意味は万葉集と基本的に同じ。文選は日本人が一番読んだ中国古典であり、それを元として万葉集の文ができていると考えるのが普通」と指摘する一方、「東アジアの知識人は皆読んでいた。ギリシャ、ローマの古典を欧州人が自分たちの古典というのと同じで、広い意味
中国古典学の渡辺義浩・早稲田大教授は、文選の句について「意味は万葉集と基本的に同じ。文選は日本人が一番読んだ中国古典であり、それを元として万葉集の文ができていると考えるのが普通」と指摘する一方、「東アジアの知識人は皆読んでいた。ギリシャ、ローマの古典を欧州人が自分たちの古典というのと同じで、広い意味では日本の古典だ」と意義づける。
中国古典学の渡辺義浩・早稲田大教授は、文選の句について「意味は万葉集と基本的に同じ。文選は日本人が一番読んだ中国古典であり、それを元として万葉集の文ができていると考えるのが普通」と指摘する一方、「東アジアの知識人は皆読んでいた。ギリシャ、ローマの古典を欧州人が自分たちの古典というのと同じで、広い意味では日本の古典だ」と意義づける。

本来の保守であれば、そのような迂闊な決定をした政府を批判してしかるべきでしょう。それにもかかわらず、そのような批判はまだあまり見られないのが残念です。

*1:幕末幻の元号「令徳」が示す改元のインパクト

*2:安倍首相「令は『良い』の意味」 野党批判に反論 - 芸能社会 - SANSPO.COM(サンスポ)

*3:先述した本郷教授が指摘されているのとおおむね同意見です。ただし、論語の巧言令色を引くのは、やや牽強付会の印象があります。「令和以外の5つはケチのつけようがない」東大教授が指摘する『令』が抱える3つの問題 | AbemaTIMES

*4:令和の出典、漢籍の影響か 1~2世紀の「文選」にも表現 - 毎日新聞

*5:現時点でこれが品田教授の寄稿であるかの裏は十分に取れていないのですが、少なくともこの内容については全く同感です。

*6:https://docs.wixstatic.com/ugd/9f1574_d3c9253e473440d29a8cc3b6e3769e52.pdf

*7:統治者が学問を修めていなければならないとは思いませんが、仮に自分が学問に通じていないのであれば、適宜な補佐を得て適切に決定すべきです。

新元号についての雑感

元号が発表されました。

私は、この時代の変遷を生で見るべく、家でテレビの前にずっとおりまして、菅官房長官が額縁を掲げたとき、の第一印象としては、音はいいと思いつつ、「和せしむ」と読めることや、「令」という漢字がどうしても「命令」という意味の印象を受けてしまい、和の押しつけ?という第一印象を受けました。

また、趣味の問題なのかもしれませんが、漢籍ではなく花を愛でる歌からというのも、私にとってはメッセージ性が弱く感じます。その意味では、あはれさを大事にする非常に日本っぽい(国学的な意味で)概念でしょうし、首相の説明を拝聴しても、今どき感を強く感じる元号という印象です。震災以降なのか、日本国内で感じられる空気の共有に関する協調圧力を顕した元号とも言えるでしょうか。

ところで、今回、漢籍を外して万葉集を選んだというのは、私からすると伝統の破壊であるように思います。その点を、どこまで意識して今回の決定が行われたのかが気になるところで、決定の過程の議論の公開は無理にしても、議論は保存しておいてほしいものです。

とりわけ、漢籍を中国由来だから気に入らないというのは、私にとっては違和感しかない考え方です。国学的な思想からすればそういう考え方になるのかもしれませんが、日本の文化は中国古代の五経・四書をはじめ、中国の概念を取り込んで形成されており、それを否定するのであれば、漢字の利用も止めなければなりません。我々の思想の中には、古代中国からの思想的な要素が多く含まれており、それを安直に否定するのには違和感があります。

しかし、決まった以上は仕方がありませんし、社会が少しでもいい方向に進んでいくよう、令和時代を生きていきたいと思います。

地獄への道は善意で舗装されている

数日前、某有名人がツイッターでお年玉を配ったのが話題になりました。これを見たときに私が思ったのが、「ただより高いものはない」というものでした。両親からは色んな金言をもらっていますが、その中の一つがこれです。

今の私の理解では、この言葉には二つの含意があり、①○○にキスするようなことはするな、②謂れのない金をもらうと後でより大きな損をするということです。弁護士になってから、根拠なく何かしてもらうと借りができてしまうし、信用できる相手以外から借りを作ると碌なことにならないというのを実感していますので、本当に親の意見と茄子の花は千に一つも無駄はないなというところでしょうか。

一方で私は、「やらない善よりやる偽善」という信条も持っているのですが、今回の出来事にはかなり違和感を感じました。なぜだろうと考えていたところ、以下の記事に接しました。

note.mu私はこの記事の筆者程今回の出来事に対し強い反感は持っていないのですが、この記事の以下の記述は、私が違和感を感じた根幹を言い表しているように思いました。

金持ちが直接金を貧乏人に配ると、上記のような形で、金持ちに権力が生まれ、貧乏人は金持ちに逆らえなくなる。
この問題を解決するために、人類は、「金持ち → 貧乏人」という富の分配を、「金持ち → 政府 → 貧乏人」という形にする方式を作り出した。すごいイノベーションである。というか、レボリューションである。
このレボリューションによって、ようやく、貧乏人は、実質的な言論の自由を手に入れ、金持ちの言うことであってもダメなものはダメと言えるようになったのである。 

 今回の某有名人の行動は、したたかな計算に基づく*1と思われるものの、根っこのところには善意があるのかもしれません。しかし、ここで当てはまるのは「やらない善よりやる偽善」よりも、「地獄への道は善意で舗装されている」でしょうか。

なお、私的な或いは趣味的な感想として、上のツイートがリツイートの世界記録になったというニュースに日本国民の窮境を感じたというのと、今回のやり方には品がないと感じるというところ。いずれも所詮は感想にすぎませんが、私の感性と社会がズレてきているのだろうと思った次第です。

*1:税務的にも法務的にもよく考えられていると思います。

那須川vsメイウェザーに見る国際契約交渉の留意点

私は大晦日は基本的に紅白歌合戦ツイッターの寸評と合わせて見ているのですが、今年は、那須川選手対メイウェザー選手のときだけはチャンネルを変えました。私は格闘技はそんなに興味がなく、せいぜい「はじめの一歩」をたまに読むくらいで、ボクシングの試合も昔何度か行きましたが、長谷川穂積選手のKO負けを見たのを最後に行くのをやめた程度です*1。そんな私でも、Pound for poundで最強のメイウェザー選手は知っていますし、那須川選手は、ファミレスで知らないお兄さんが、電話でいかに那須川選手が凄いかを友人に力説するのを聞いたことがありましたので、興味は持っていました。

さて、試合の結果は周知のとおりですし、私は格闘技自体のことは良くわからないのでコメントしませんが*2、試合以外に、日本側(那須川選手とその陣営及び運営団体)と、米国側(メイウェザー選手とその陣営)の国際契約交渉*3の過程に目が引かれました。ここには、国際契約交渉で留意すべきエッセンスが含まれているように思ったのです。主に以下の3点です*4。なお、私は本件について全くの部外者ですので、以下では、報道されている事実をベースに想像で事実を補って書いております*5

1.自らの利益を最大化するのが契約交渉

国内外を問わず、契約は自らの利益を最大化するために行います。理屈の上では、当事者は、財の交換によってWin-Winとなるから契約をするはずですが、相手がWinかどうかは本質的には重要ではありません*6。特に、外国企業*7は、その契約相手と将来にわたって付き合う利益があるかどうかを冷静に考え、将来がないのであれば、目の前の契約で自らの利益を最大化することを志向する傾向があるように思います。

ちなみに、ビジネスで信頼関係は必要ですが、お互いに裏切る利益がない状況を共有する方がより重要です。トップ外交は、特にトップの権限が日本より強いことが多い外交企業とのお付き合いでは必要ですが*8、トップ外交による信頼関係があるから大丈夫と思ってしまうのは危険です。

今回、米国側は、日本側のルール改訂の要求に全く応じなかったのではないかと思います。メイウェザー選手が、キックボクシングのルールによることで負傷したり、万が一にも敗北して評判に傷がつくことを受け入れることはできない以上、米国側がこのような対応をするのは当然でしょう。メイウェザー選手は、ボクシングの試合や興業を通じてキャッシュを生むエンティティのようなものであり、世界的に無名であろう那須川選手と、今まで経験がないルールで戦って負傷するようなリスクを取れるわけがありません。キック一発で500万USDという違約金条項も入れられていたようですが*9、それも米側からすればリスクヘッジのために当然ということになります。

逆に、米国側が、ボクシングルール以外で戦うことを受け入れるとすれば、それは上に述べたようなリスクを超える利益が提供されるか、メイウェザー選手がボクシングでキャッシュを生む価値が下がって、ボクシング以外で試合をせざるを得なくなったときでしょう。日本側は、キックを許容するルールを目指して交渉していたようですが*10、それはかなりハードルが高い条件であったように思います。

2.言語の違いを軽視してはならない

国際契約交渉で意外と軽視されることがあるのが言語の違いです。私の経験上、それなりに言語堪能な通訳を起用しても、日本語⇔外国語でのコミュニケーションの場合、伝えたいことの7割程度しか伝わらないという印象ですが、通訳のクオリティや言語の違いはあまり気にされないまま交渉が進み、それによって両当事者で意図するところがズレていくというのは、国際契約交渉で時々生じることです。また、両当事者がある概念を交渉で用いているときに、その概念の理解に齟齬があり、後で噛み合わなくなるということもあります*11。国家間の外交であれば、国民への説明の観点からあえてそれを利用することもありますが*12、契約は原則として双方を明確に縛るように作る物ですので、このような齟齬は限りなく避けなければなりません。

なお、本題から外れますが、交渉を含むコミュニケーションにおいては、母国語で行うのが最も有利なので、私は、重要な交渉は両言語のネイティブスピーカー1名ずつ*13を配置し、ネイティブスピーカーが交渉をし、もう1名がダブルチェックをすべきと考えています。また、たとえば日中間の重要な交渉では、よほど英語に自信がある者同士でない限り、日中両言語で交渉すべきというのが私見です。

さて、今回、昨年11月5日にカードが発表された数日後、米国側は、試合についての説明が違うとしてキャンセルをすると言い出し、同月16日に日本側が渡米して説明することで「ミスアンダースタンディング」が解決したようです*14。これはどこまで真意なのかというのはありますが、報道を見ている限り、日本側がイメージしていた興業内容が「果し合い」でキック等もありというのに対し、米国側は、日本側が選んだ選手との3分×3ラウンドの「エキシビジョンマッチ」で、世界的に放映されるという説明も受けていなかったようであるとされています*15。この行き違いがどこから生じたかというのは籔の中ですが、11月5日の発表で日本側が「エキシビジョン」に言及しているようですので、結局「エキシビジョン」で合意したが、その中身の理解に齟齬があったのではないかという印象があります。

3.契約交渉は足元を見られないようにする

契約交渉において、外国企業は、日本企業に比べて容赦ない交渉をしてくることがあります*16。たとえば、2で述べたキャンセルというのも、考え方によってはある種の揺さぶりであった可能性がありますが、このような手を使ってくる外国企業は珍しくありません。

このような手に対しては、自分の利益状況を見誤らないようにしつつ、冷静に対応する以外ないのですが、それ以前に重要なのは、足元を見られないようにすることです。たとえば、いつまでに契約を纏めたいということを述べるのには慎重になるべきであり、その契約が纏まらないとどうなるかといったことは述べるべきではありません。交渉は、デッドラインが決まっている方が不利ですが、仮にデッドラインがあっても、それを相手に明かすこと自体が不利であり、かつ、明かすことで、揺さぶりの効果があるかないかも相手に分かってしまうからです。

また、デッドラインがあるとしても、交渉力を確保する方法として、契約先の別候補を作るというのがあります。M&Aでも代理店契約でも、それこそ弁護士との委任契約でもいいですが、現在交渉している以外にも契約先の候補がいることを示すというのは、交渉力を確保する古典的な方法の一つでしょう。

今回、日本側が興行主であり、かつ、米国側は顧客誘引力の極めて強い選手を有していますから、交渉力には大いに差があります。加えて、イベントの日取りは決まっており、かつ、交渉開始は10月で、日本側が相当前のめりになっていたとも報じられています*17。この時点で、別候補を出すことも難しくなっていた可能性があります。

一方、米国側も、ボクサーとして引退した以上、今後は米国外でのボクサー以外でのビジネス展開を模索していたはずであり、日本という格闘技はそこまで盛んではないかもしれないが、経済力のある国での興業には興味はあったものと思われます。そのあたりを上手く突いて交渉をするには、少し時間が無さすぎたのではないかという印象があります。

 

最後に、ここまで書いておいてなんですが、契約交渉というのは、外部環境に大きく影響されますので、上の留意点を全て守ることはどだい無理です。たとえば、「社長が外国に行って外国企業の社長とざっくり話をまとめたうえで、1か月でMOU締結して来いって言ってますがどうしたらいいですか」なんていう相談はよくあります。こういうとき、弁護士目線では、契約を性急に進めるのは危険と思いますが、一方でビジネスではスピードも大切でしょう。したがって、結局は、弁護士のアドバイスも踏まえて、クライアントにビジネスジャッジしていただく話であり、あとは結果がどうなるかという話であろうと思います。

本件でも、色々批判はあっても、日本側がこの興業を通じて知名度が上がったのは間違いないでしょうから、興業的には成功したと言えるのでしょう*18。したがって、ビジネス的には成功だったのかもしれません。

しかし、弁護士としては、上のような留意点を、ビジネスをされる皆さんが念頭に置いてもらえれば、よりメリットを確保できるのではないかと思い、日々アドバイスをしているところです。

*1:バンタム級でもパンチをもらうと人があんなにグラつくのだという刺激的すぎる景色を生で見て、自分にはこの刺激が趣味に合わないと思ったのが切っ掛けです。それまでは、後楽園ホールにも何度か行っていました。2000年頃のK-1も結構好きで、マーク・ハント選手、レイ・セフォー選手、アレクセイ・イグナチョフ選手が好きでしたが、今では全く見なくなりました。

*2:ただ、ここまで体重差がある試合をやらせてよかったのかというのは疑問です。結局、試合ではなく興業なのだという説明なのでしょうが、興業であれば選手の安全性に配慮しなくていいということにはならないでしょう。メイウェザー選手のフックで吹っ飛ぶ那須川選手を見て、事故が起きたときにどうするつもりだったのかと思いました。もちろん、那須川選手の心意気や勇気は個人的には素晴らしいと思いますが、その評価と運営に対する評価は別物でしょう。心意気に対する評価を理由に、結果に対する客観的な分析を怠るのは悪癖です。

*3:ここでいう「国際」とは「クロスボーダーの」と同義です。

*4:契約の重要性については、既に素晴らしい記事があったのでご紹介しておきます。メイウェザーが教えてくれたこと。スポーツでも契約書は凄く大事! - ボクシング - Number Web - ナンバー

*5:格闘技の場合、試合に至るまでのやり取りも含めて見せ場なので、個人的には、たとえば2で触れる米国側の日本側に対するクレームも、見せ場作りだったとしても構わないと思っています。

*6:そもそも、相手がWinかどうかは契約の時点では通常わかりませんし、わかる必要もありません。

*7:私の経験の範囲ゆえ、念頭に置いているのは中華圏、アセアン及びオーストラリアです。

*8:特に中華圏相手の交渉では、トップで話ができていると、交渉のカードとして使えることがあります。

*9:異例!メイウェザーがキック1発5億超の違約金設定 - 格闘技 : 日刊スポーツ

*10:【RIZIN】那須川天心vsメイウェザー、ルールについて榊原委員長が語る - eFight 【イーファイト】 格闘技情報を毎日配信!

*11:私が英米法の知見がないからかもしれませんが、大陸法系以外の国と交渉をすると、概念の齟齬が生じます。一方、大陸法系の国の場合、齟齬は生じにくいのですが、一方で同じと思っていた概念が微妙にズレることが生じたりします。

*12:たとえば、日ソ共同宣言で歯舞群島色丹島は「引渡し」されることとなっていますが、これは領土がどちらに帰属するのかをあえて明確にしない表現です。また、ポツダム宣言受諾に関する「subject to」の理解もこれと同じような論点だと思います。

*13:たとえば、日英なら、日本語ができる英語ネイティブと、英語ができる日本語ネイティブということです。

*14:【急転直下】「メイウェザー vs 那須川天心」がやっぱり実現か? 格闘技マニアに今後の展開を聞いてみた | ロケットニュース24

*15:前代未聞の対戦キャンセル メイウェザーの訴えに大反響 - ライブドアニュース

なお、メイウェザー選手のインスタグラムの投稿が削除されているため、私は原文を見ていません。

*16:この原因としては、文化の違いもあるでしょうが、外国企業にとって契約相手が外国所在のため、揉めるリスクを低く感じているというところもあるように思います。海を越えて相手方と裁判だ仲裁だとやるのは高コストであり、ハードルは高く、特に日本企業は法的紛争解決を忌み嫌う傾向が強いので、揉めても法的手段には出ないだろうと考えているところはあるように思います。

*17:ルール未定のメイウェザー狂騒曲。那須川天心と大晦日RIZINで対戦! - 格闘技 - Number Web - ナンバー

*18:繰り返しになりますが、私はこの体重差で戦わせたことへの疑問を持っています。また、那須川選手の身体や今後のキャリアへの影響もこれから分かってくることでしょうから、興業的に成功したとしても、同選手にとって成功だったかはまだわからないと思っています