我流三国志―魯粛について

※これも2005年に書いたものをブログ消すのでこっちに引っ張ってきたものです。


三国志の中で有名な政略として「天下三分の計」というのがある。これは諸葛亮がそれまで流浪を続けていた劉備に対して示したものとして有名だが、魯粛もこのようなビジョンを諸葛亮よりも前に孫権に提案している。そもそも魯粛孫権に仕えるようになったのは、周瑜の紹介によるのだが、初めて孫権に会った彼は、「漢の復興はもはや不可能。まず長江以南を固め、然る後荊州に進出し、帝王の業を為されよ」と語り、これまた明確なビジョンを示している。「天下三分の計」については諸葛亮のものばかりが有名だが、この魯粛のビジョンもそれに類似したものといえる。
諸葛亮及び魯粛がこだわったこの計には、どのようなメリットがあるのだろうか。この時期中原では曹操が覇者となりつつあり、天下の半分以上を占めていた。それに対抗するには、天下を三つに分け、二弱が一強にあたることで、バランスをとり、最後には一強を滅ぼしてしまおうというものであった。もちろん魯粛諸葛亮が初めからここまで明確なビジョンを持っていたと言い切ることはできない。しかし、諸葛亮劉備に対して蜀の地を取り、荊州を併せて曹操に対抗しろと提案したのは事実であり、魯粛も上記のような提案を行っている。おそらく計画の実現過程で、天下三分の計が彼らの頭の中で完成していったのであろう。
話を魯粛に戻す。彼は曹操の南征に対抗するのに、劉備に注目した。この時劉備の兵力はおよそ二万、しかし多くは前線の守備兵であって戦闘には参加できない。実際曹操との決戦に臨んだのは主に呉軍である。そのため、周瑜劉備を当てにすることはできないと思ったのか、この同盟にそう乗り気ではない。しかし魯粛は同盟の実現に尽力する。周瑜のようにその場だけの利益を考えるなら、この同盟は明らかに劉備にとって益が大きく、呉には何の益もないように思える。しかし、魯粛劉備荊州における名声を利用しようと考えたのである。劉備は五年程荊州に滞在しているが、この際に人心収攬に務めており、諸葛亮らの名士を登用できたのもこのためである。荊州の人間にとって呉軍は他人以外の何者でもない。しかし劉備の同盟者となれば、荊州の人間も呉を受け入れやすくなる。したがって魯粛は、将来呉が荊州を統治するときのことを考えて劉備と結んだのである。また、曹操軍兵士四十万のうち十万程は荊州兵である。劉備が呉につけば、彼らもまた戦いにくくなろう。他にも、このときすでに魯粛がそう考えていたかどうかはわからないが、劉備を反曹操勢力のもう一つの頭にしようと考えていたのではないか。
ところで、赤壁以前と以後で、呉の内部の中心勢力に変化が見られるのだが、赤壁の戦い前には、呉勢力内部では二つの勢力があった。孫策時代から仕える張昭らの親曹操派と、周瑜魯粛らの反曹操派である。赤壁で呉軍が勝った後、呉軍内部では周瑜らが台頭し、その後トップは周瑜魯粛呂蒙陸遜と移る。しかし魯粛はこの中でも一人異なる政策を持っていた。周瑜赤壁後、劉備との同盟を軽視し、蜀への侵攻を孫権に提案し、許可を取り付けたものの、いざ実行というところで死んでしまう。後継者となった魯粛は、政策を一転させ、親劉備路線に切り替え、荊州の要所江陵を劉備に貸与する。期限は劉備が蜀を得るまでであった。それまで劉備荊州南部の四郡を領有するのみであったが、これにより蜀への進出が可能となったのである。その後劉備が蜀を得ると、孫権は江陵の返還を要求するも、劉備はつっぱね戦争になる。これは曹操の漢中侵攻により停戦するが、このときの交渉に当たったのも魯粛である。このとき魯粛は、大幅に劉備が有利な条件で講和している。目先の利益よりも、孫劉同盟の維持にこだわったのである。しかし魯粛関羽が荊北侵攻する直前に死ぬ。後継者となった呂蒙は、周瑜と似た考えを持っており、劉備との同盟を軽視する、というより結果的には破棄している。つまり、曹操と結び、関羽の背後を突いて荊州南部を奪い取ったのである。これは魯粛が苦労して維持してきた孫劉同盟を破壊したのみならず、諸葛亮魯粛の抱いていた「天下三分の計」をも破壊してしまった。なぜなら、劉備勢力は漢中及び荊州から北上、孫権勢力も長江下流及び中流から北上というのが彼らの戦略であったからだ。その後、孫劉は戦火を交え、劉備勢力は甚大な打撃を受ける。国力は大きく下がり、人材も多くを失う。いわゆる五虎将軍も残るは趙雲のみとなり、そこから諸葛亮の苦悩が始まる…
魯粛周瑜呂蒙と異なり、目先の利益にとらわれない大局眼を持った人物であった。例えば周瑜が蜀に侵攻していたとしよう。蜀の主劉璋は小人物のイメージが強いが、蜀兵自体は必ずしも弱くはない。現に劉備は蜀攻略に意外に手間取っている。ということは周瑜でも必ず手間取ることになろう。その間に曹操が侵攻してきたらどうなるか。また、周瑜劉備を懐柔し、孫権の完全なる麾下とすることで、劉備配下の将兵を手に入れようとしたこともある。もしそうしていたら、曹操に対抗する第三勢力は生まれていただろうか。もし第三勢力が生まれていなければ、呉は下手をすると曹操の代にも滅ぼされていたかもしれない。また、魯粛は同盟にこだわったが、後々蜀呉が荊州のことで揉め、お互いに国力をすり減らし、最後には滅亡したのも、この同盟を維持することより、目先の利益にこだわったことにあった。ちなみに孫権すらこの魯粛の考えはよく理解できてなかったらしく、魯粛死後、「魯粛は大功をたてたが、荊州劉備に分割して与えた(劉備入蜀後)のだけは失敗だった」と言っている。
でも最後には呉と蜀は雌雄を決さなければならないではないか、という人もいよう。しかし、実は劉備死後諸葛亮孫権は、魏領の分割案を出しているのである。そもそも呉は蜀や魏とは国の存在意義が異なる。魏は漢の後継者であり、蜀はそれを纂奪であるとすることで正当性を主張した。蜀はもちろん「漢」を名乗っている。一方呉は、正当性も何もない。しかしこの国はあくまでも地方中心主義である。ゆえに蜀のように北上にこだわるのでなく、呉は南方の山越と呼ばれる異民族を討ち、南方開発に精を出している。したがって呉は別に中国の統一にこだわる必要はなかったのである。そもそもこの時代の中国というのも定義が曖昧である。少なくとも現代人の感覚でとらえると大きな間違いを犯すので注意が必要である。よく人間は現代の感覚で過去の出来事をとらえようとするが、それは大きな間違いである。
話がずれた。
とにかく魯粛という人物は、あまりぱっとしないものの、実は三国志において大きな役割を果たしている。そもそも彼がいなければ、三国時代自体が到来していない可能性すらある。私は昔演義を読んで、魯粛のような人物がなぜ周瑜の後継者たり得たのか理解できなかったが、今はよくわかる。そういった意味で演義における魯粛の矮小化はかなり許せない…まあ物語と言ってしまえばそれまでだが。