チャンスの神様には前髪しかないが、そもそも神様が見えないという話

子供の時分に親に小言というか、アドバイスというか、よく言われていたことに「30過ぎたら自分の顔に責任を持て」というのと「チャンスの神様には前髪しかないから、迷わず掴め」というのがありました。

齢を重ねるにつれ至言だなと思う訳ですが、後者については最近少し考えが変わってきました。つまり、「チャンスの神様には前髪しかないが、そもそも神様が見えるようになるまで掴みに行くしかない」と。

これはおそらく仕事のチャンスで言えば、所内の弁護士、所外や海外の専門家*1、クライアントと一緒に仕事をする過程でチャンスをつかんでいる方々を見てきたからかもしれません。また、最近私より相当年下のある学生さんと食事をして色々話し、その方の超貪欲な姿勢にあてられたというのもあるかもしれません。

一方で、私の目から見たら、チャンスを掴みに行かない方々というのもいます。別にチャンスをつかむばかりが人生ではないので、生き方の問題ではありますが、少なくとも私の目からもったいないなと思うこともあるわけです。とりわけ、掴みにも行かずに自分の運命や境遇を呪っているなんていうのは、まさに隙だらけ*2で何をやっているのだと思う訳です(このブログを始めた頃の私がその典型)。

そこで両者は何が違うのかなと思う訳ですが、結局貪欲さなのだろうと。「チャンスは目の前ちょっと待った、行かないなら俺もらった」というのは某ラッパー初期のアルバムのリリックですが*3、その姿勢なのだろうと。実はチャンスだと思って取りに行ったら地獄を見るなんていうのはよくあることな訳ですが、しかしそれで掴みに行くのをやめるとそれまでです。チャンスかどうか分からないが掴みに行き、試行錯誤を繰り返しているうちに、チャンスが見えるようになると。そして、早い段階でそうなってしまえば、後は自分という資本を元手に、チャンスを掴むかどうかを決めて行けばいいわけです。また、掴みに行かない人はチャンスが見えるようにならないわけなので、掴める人との差は大きくなるでしょう。

ただ、翻って思うのは、自分に見えていないチャンスがあるはずであろうという思いにとらわれ、かつ、貪欲さを抑えられないとなるとどうなるのだろうかと。あとは人生をどう生きるかという問題になり、半分降りるのか*4、とことん突っ走るのか。人生の実験手法は人それぞれではあれ、そのあたりの決めになるのでしょうかね。このあたりは人生経験が足りないので肌感覚がない所ではあります。

まあ何が言いたいかっていうと、弁護士は少なくとも自分の食い扶持を得られるようになるまでの間は、ひたすら貪欲に掴みに行くべきであって、失敗するかもしれないなんていって怯んでいる場合じゃないということです。