松戸〜国府台散策―国府台合戦の地を歩く(2010年5月25日)

午前中で授業が終わりなので、午後を利用して、根津を二時くらいに出発し、松戸へ。
そのために前日、翌々日の予習をばっちりしあげ旅行に備える。
きっかけは、GWから約一か月、いい加減ずっとロー棟と家の往復に疲れたこと、そして、ゼミの発表というタスクが終わったこと。とかなんとか正当化していることにして、良心の呵責すら抱かない自分を正当化する。

と、その前に、国府台合戦について。
今回訪れた松戸から国府台にかけての地は、小田原に本拠を置く戦国大名北条氏が関東地方に勢力を広げて行く過程で発生した二度*1の合戦の舞台となりました。

一度目は北条氏綱(早雲の子。二代目)対、小弓公方足利義明。これは現在の松戸駅からその南一帯が戦場になったと言われます。この戦いで、房総半島に勢力を誇った足利義明は嫡男とともに討ち死にし、小弓公方は滅亡します。一方、当時安房の有力勢力であった里見氏は、足利側についていたものの、見切りをつけて戦線を離脱して勢力を温存し、小弓公方の滅亡により権力の空白地となった房総で勢力を伸ばして、上総から安房を支配する(当時の)東関東最大の戦国大名となります。

二度目はこの房総の雄となった里見氏と、氏綱没後当主となった北条氏康とが相まみえることで発生しました。一度目の合戦から二十年余り経ったこの頃、関東の政治勢力図は大きく塗り替わり、北条氏に追われた関東管領を保護した越後の上杉謙信及びそれに同調する関東の諸勢力対北条氏康という構図が出来上がります。そして里見氏は、上杉氏の盟友として北条氏と戦うこととなりました。この戦いで里見氏は大敗し、房総に伸ばしていた勢力を一気に失い、本拠地である上総と安房の国境にまで攻め込まれます。

そういった地域な訳ですが、そこを、合戦の展開と同じように歩いてみようというのが一応のコンセプトですw

というわけで、概要。

根津→松戸着(14時半)→相模台(相模台城址)→戸定ヶ丘歴史公園(松戸城址)→野菊の墓文学碑→矢切の渡し(16時40分)→里見公園(国府城址)→国府台駅(19時)→町屋→根津(20時)

戸定ヶ丘歴史公園から野菊の墓文学碑まで、流山街道〜松戸街道にかけて三キロほどバスに乗りましたが、それ以外は全部歩きで、今日はのべ20kmのウォーキングとなりました。最近20kmくらいならどうってことなくなってきましたね。もちろん、今日は気温の割に日差しが強くなく、風が強くて涼しかった、それどころか夕方は寒かったということもありますが。これがGWの太田城行った時みたいに気温30度とかだったらシャレにならなかったですがw


千代田線に乗ってまずは松戸へ。よく考えてみたら東京の北東部(葛飾区や松戸、三郷など)ってあまり行ったことないので、千代田線のこちら方面もあまり使ったことがなかったという話。地下鉄が外に出てしばらくすると、川を渡る。順に隅田川、荒川、のはず。このあたりは見渡す限り住宅街が続くベッドタウン高崎線で見る埼玉中部あたりまでの景色と全く同じ。駅前にはチェーンの居酒屋が何軒かあり、少々大きな駅だとバスロータリー。見慣れた景色で特に新鮮味もない。とか何とか思っているとついに江戸川を越え、千葉県へ。このあたりを第一次国府台合戦で法上軍が渡ったんだよなあとか思いながら、がらがらの社内にもかかわらず席を立ってドアの窓から外を眺める。川渡ったらすぐ松戸かと思いきや、松戸駅は川から結構離れていた。これは川まで歩くの厳しいなあ…

松戸駅にて下車。駅では常磐線に乗り換えて土浦あたりに行ってみたい欲求に駆られたが、それは将来のお楽しみに。土浦とか、お城と昔付き合ってた子の母校というイメージくらいしかないんだがw、自分の中で残念な小大名である小田氏の印象が強く、一度行ってみたいという話。あ、あと霞ヶ浦も見てみたいですね。

14時半頃松戸到着。まずは駅の中のコンビニでコーヒーに水1リットルを購入。首に巻いたバフを腰につけ、コーヒーを尻ポケットに突っ込み、旅行モードに切り替え。もちろん靴は歩きやすいバンズのスニーカー(歩きやすさのため二代目)、上はTシャツ一枚で下はぼろぼろなジーンズ。この格好、大変みすぼらしい(ため後でちょっとめんどうなことに)。
駅の外に出てみると、なんというか駅前がビルやアーケードに囲まれていてえらく圧迫感がある。とりあえずこれから歩こうってのに帽子がないってのはしんどいと思って、駅前のセブン&アイに入り、帽子を探すが、パチもん臭いニューヨークヤンキースの帽子とかしかなくて断念。とりあえずさっさと相模台へ向かうことにする。店を出て地図も確認せず南に向かって歩く。

ちょっと歩くと相模台公園の看板と、丘に登るための階段に出くわす。この辺りから商業施設はなくなり、民家が多くなる。なかなか急な階段を上ると、高台に到着。これはどう見ても城の一部だな…と思い徘徊するが、公園中央部は凹んでおり(というより周りに土塁があるというべきか)、ここは郭だったのではないかと思わされる。この高台が北へ向かって続いており、それは松戸駅の東側まで伸びているよう。

ベンチでたばこを吸っているお兄ちゃんをしり目に、一人でふむふむ言いながら公園内を歩き回る。といっても大して何かがあるわけではなく、吉田茂による*2揮毫の太平洋戦争の慰霊碑が公園のすみっこにあったくらいで、あとはふつうの公園である。しかしこの碑には花がきちんと添えられていた。

相模台公園からいったんおりて、同じ高台にある公園北側の高台へ。高台の間は裁判所や検察庁の施設に遮られて移動できなかったので。こんどはこちらには松戸中央公園という公園が。ここは何やら戦前工兵学校があったらしく、公園入り口はその名残で、石造りの、歩哨の立つ台のようなものまである。

現在戦争と学問というのはきっちり分けられ、大学で軍事学を開講することは防衛大学校以外ではないようだが、もともと学問と軍事学とは切っても切り離せない関係にあったということが思い出される。だいたい、一国の工業力というのは軍事力とほぼイコールなわけで、工学部というのが軍事力を支える基盤でありうることは言うまでもないこと。
それはともかく、自分にとっては近現代の遺跡よりも、戦国時代の遺跡の方が気になるわけで(笑)、その痕跡がわずかでもないか探す。公園に入るとすぐ相模台の歴史を説明する看板があってしっかり国府台合戦についての記述がありあがるテンション。しかし、公園内はしっかり整備されていて遺跡なんて全く見当たらない。市の中心では仕方ないし、開発によって遺跡が消えるのも歴史の流れだから当然のこと。

しかし、北条軍の渡河を発見した足利勢が、松戸城にいた足利義明に早馬をとばし、襲撃を促したが結局義明は正面から戦うものとして、激戦を繰り広げ、最後は息子が討ち取られたことを耳にして憤怒し、敵軍に突入して討ち死にした場所がこのあたりであるということを考えると、むしろ、そのような場所であってもこのようなのどかな市民公園に変える歴史の流れというものに、一種の諦念、そしてノスタルジィを感じる。これが古戦場の醍醐味であり、それはむしろ、上田原*3のような畑が広がる古戦場よりも、こういった都会化してしまった場所においてのほうで強く感じられる。

個人的にこういった場で忘れないようにしていることは、人為を排す歴史社会の流れに巻き込まれ死んでいった人々に対する挨拶。つまりお墓参り。ということで、聖徳大学の構内にある碑を見るため、公園の北東にある大学正門へ向かう。
あとで気づいたのだが、ここ女子大だったんですねw正門に向かうと女性の警備員が胡散臭いなあという感じでじろじろ見てくるので*4、何か言われる前にあいさつし、デフォルトで怖い顔つきを極力ゆるめて、観光ですと言わんばかりにカメラをぶらぶらさせながら(自分なりの)最高の笑顔で、上の碑を見たいので構内に入らせてくれとの申し出をしたところ、(たぶん)快くおkをいただきました。碑は入って左手すぐにあるのですが、そこを示した上で

「そこまでにしておいてくださいね」

とくぎを刺されましたがwwwまあ仕方ないっすね。


人通りが多かったのでお参りするのも気まずかったので、心の中で手を合わせ、写真を取って退散。警備員の方にお礼を言うのも忘れないのが紳士のマナー*5。どうでもいいけど、警備員の方、門から出ていく学生に声をかけているが、学生はスルー。素晴らしいね。まあそれは東大もだいぶそうなんですが。

そこから次の目的地は松戸城跡なんだが、地図は頭の中にしかないのでw、とりあえず門からまっすぐ行ってヨーカドーにぶつかったところの地図を見て、南へ。市民公園を突っ切り、さっきのぼった坂を下って相模台に別れを告げる。下りたところの交差点から南へ向かう。
道幅が狭く、地方の県道沿いのような街並みをみながらちょっと歩くとT字路につきあたり、そこを右手に進むと、左手に戸定が丘歴史公園こちらとの看板が。それに従って、変なモニュメントがある交差点から坂を登っていくと、高台にちょっと高級そうな住宅が立ち並んでいる街並みに入り、その中に歴史公園があった。

どうやらここが松戸城址らしいが、言うまでもなく遺構などない。とりあえず中に入ってみる。徳川慶喜の弟である昭武の邸宅だったんだとかで、戦後松戸市に土地が寄付されたんだとか。それを整備して公園にしたということのようです。

折角来たんだしということで、邸宅に入り学生料金*6を支払って参観。明治期の邸宅がほぼ完全に残っていて、江戸時代の下屋敷の構築を留めており、庭園とともに千葉県指定名勝となっているとのこと。また、建物は最近国の重要文化財に指定されたということらしい。
全然期待せずに入ったのだけれど、これがどうしてなかなか。座敷から見る庭と、その向こうに広がる江戸川や松戸の町並みは素晴らしいものでした。特に庭が素晴らしい。

高級住宅街と思しき中にあるので、選挙カーが通った時以外は静かで、大変落ち着いたところでした。駅から遠くて(たぶん1.5kmくらい)アクセスは悪いかもしれませんが、デートスポットとしていいんじゃないかな。

ちなみに天気がいいと富士山が見えるらしく、関東の富士見百景に選ばれていましたが、この日は曇っており、残念ながら見えませんでした。そういえばこの間行った太田金山城も選ばれてたなあ…みんな富士山大好きだもんね。九州出身の自分からすると、富士山にそこまで思い入れなくて、ある意味英彦山の方が思い入れあるくらいなんですけれども、その辺は関東の方は違うんでしょうか。まあ確かに、以前横浜に住んでいたときに坂の上から見た富士山は本当にきれいでしたけど。

座敷のみならず、お風呂や洗面所も公開されていたので、そのあたりも参観。湯船の小ささや、天井の低さに、明治生まれの日本人の体の小ささを見る。
しかし、こういう和風の邸宅って素晴らしい。自分が家建てるとしたこういう感じにしたいなあとか叶わぬ夢をもちつつ、15分ほどのノスタルジィを満喫し、邸宅を出る。

さらっとノスタルジィとしたけれど、本年25歳の自分に、自己の経験の裏付けがあるノスタルジィなんてありえないわけで、そこは「こういうの古い日本っぽいよね」という価値観があり、それに対し邸宅が刺激を与えたと言うだけの話なんですよね。とはいえ、なんとなくこういう邸宅が落ち着くのはなぜなんだろう。やはりそこは、「こういうのいいよね」という日本人で広く受け入れられていると思われる感覚を、自然と身につけているからということなんでしょうか。この辺りの感覚を民族性とか国民性と称するんでしょうね。こういう一般化は個人的に大嫌いなんですが、そういうものがあることは否定できないように思います。

話がそれまくりましたが、そこを出て、公園の奥の方をぐるっと回るが、あずまやがいくつかあるくらいで特に何もない。そういえば邸宅に入るときに、展示館のチケット付きにしたなあと思って展示館へ。徳川昭武についての展示を見る。
同人は、海外留学をしているのだけど、当時のフランスと、日本のプリンスとの交流という、いかにも異文化交流というテイストの展示がなかなかおもしろかった。また、同人の趣味であった写真が展示されており、プリンスやその周りの人々の顔つきを見ることもでき、これもなかなか興味深い。
とりあえず、元権力者は、元権力者に恭順の意を示すために政治活動と縁のない活動に精を出すものですが、将軍家も類に漏れないようで、狩猟や写真に精を出していたようで。政治活動と縁を切るという点では、現在の天皇家において、陛下を始め皇族の方々が理系の研究をされるのも共通していると言えるんでしょう。
天皇家と言えば、展示館の隣に、天皇皇后陛下が去年いらっしゃったらしく、その記念碑が建っていました。こういうことがあるとなると、陛下もなかなか気軽にお出かけになれないですよね。こういった記念碑を建てる費用については誰も無駄使いとは批判できないですしね。熊本城で最近御殿を再建しましたが、あれの費用も無駄使いとは言われないのも似たようなものでしょうか。価値の絶対化が悪いとは言いませんが、タブー化はいかがなものかと思いますけど。

期せずして明治期の雰囲気を満喫し、門を出てよくわからないがとりあえず南に行こうと思い、左に曲がって常磐線沿いにしばらく南に向かう。左手には歴史公園の台地があり、そのあたりの崖を見る限り、ここにお城があったとしてもおかしくないと思わされる地形。そして線路と台地の間の狭い線上の土地にも、隙間なく民家が散在している。本を読みながら歩いている二宮的な小学生の女の子だったり、上気に水をやっているおばあちゃんだったりといったのどかな景色を見つつ、しばらく歩くと線路を渡る歩道橋に突き当たる。ここでグーグル先生にお尋ねしたところ、どうやら渡ったほうがよさそうだということで線路を渡ったのだが、歩道橋上でおじさんを追い抜こうとしたところ、足音がでかかったからなのか、おじさんがビクッとしてえらい警戒されたのももはやいい思い出。すみませんね、怪しくかついかつい格好で。歩道橋から撮った歴史公園(松戸城址)の写真がなかなか。

※あとで調べたところによると、戸城の南東側の千葉大キャンパスが松戸城のあったところだった模様orz

流山街道に出たところでちょうどよく来たバスに乗って、矢切の郵便局の前まで。やはり都会はバスが多いという点は素晴らしい。田舎だと一時間に一本がいいところ。

次に目指すは矢切の渡し。下りたバス停すぐに矢切の渡しの看板があったので、渡しは近いのかと思いきや、そこから渡しまで軽く数キロあるということに、近くの矢切神社のそばの案内看板を見て気づく。仕方ないので歩くわけだが、矢切の地名の由来や、国府台合戦時にこの地の農民が酷使された*7とかいったことが書かれている神社だったり、野菊の墓記念碑だったりといったものがあったので、飽きることはない。というか、自分は初めての土地を歩いて周りをじろじろ見るのは大好きなので、そもそも飽きることはないんですけれども。野菊の墓記念碑の側には、なぜか里見氏側にえらく辛辣な第一次・第二次国府台合戦の説明板があり*8、それを見つつそこのおベンチでしばらく休憩。

どうやらこの野菊の墓記念碑があるところが、台地の終わりらしく、ここから西側は江戸川沿いの地形となっているよう。第二次国府台合戦時*9に北条方の遠山綱景が討死にしたのはこの坂の下であるとのこと。

坂を下りるとそこはもう川沿いの平地。有名な矢切ねぎや、キャベツを栽培している畑の間に作られた観光者用の道を歩き、川へ向かう。

途中でいわゆるオーナー農園などがあったりして、いわゆる近郊農業という感じが強い。キャベツを収穫している農家の人々(といっても、夫婦二人)がいたが、そのそばの軽トラからはラジオが流れていて、どこの農家もやることは一緒だなあと(うちの母方は農家)。

そして土手を登り、ついに江戸川の流れを望む。この日は風が強く、川に波が建っているほどで、川の流れはなかなか荒々しい。北側には常磐線の鉄橋、南側には北総線の鉄橋が見え、対岸には東京の町並みが見える。一方で自分が建っている千葉側は、松戸市から国府台駅に至るまでのエリア一帯は畑が広がる田園地帯で、対照的。北東側には松戸駅近くの伊勢丹が見え、東側には先ほど歩いてきた台地が北から南へずっと続いているのが見える。この台地が国府台と称されており、これが市川市のところで江戸川に隣接するが、そのような地にはお城を作られるということで、これが次なる目的地の国府城址(里見公園)。
第二次国府台合戦では、北条軍はこのあたりを渡り、緒戦で遠山らを討ち取り快勝してお祝いモードだった里見軍を襲撃したわけです。この際の指揮は、名将として有名な「地黄八幡」こと北条綱成が取っており、彼を相手取って調子にのっちゃった里見義弘のミスと言わざるを得ないでしょう。とはいえ、この辺は、遠山らが討ち死にした戦いは第二次国府台合戦とは別という説もあるので何とも言えないのですが…

矢切の渡し渡し船は午後四時半までとなっており、ついた時点で五時前だったので利用はあきらめ、とりあえず渡しだけ見て、細川たかしの筆による碑などの写真を撮る。渡しから対岸は意外と近いように思われたけれど、川幅は時代によって変わるので、このイメージで昔を語ることはできないでしょうね。

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矢切の渡しから里見公園まで、ひたすら江戸川の河川敷を歩く。閘門や浄水場を見つつ、おそらく三十分くらい歩いたところで河川敷が一般道に合流。このあたりが国府台城の置かれたところ。現在の里見公園である。

川の水面からかなり高いところにこの公園があるのだが、これは確かに守りやすい。
堤の上の道路から、里見公園に上る急な階段を上り、里見公園の北側入口から公園内へ。自動販売機とベンチがあったのでここでいったん休憩するが、目の前に見える土塁としか思えない地形に目が行き、休憩もそこそこに散策開始。

とりあえずぐるっと公園の北側地形を一周。しかし、地形自体はどう考えても城のそれなのだが、後世の造成のためか、土塁が途中で断ち切られているように見えるものがあったりして、城の原型が全く想像できない。事前のリサーチによると、国府台城はぼちぼち大きな城だったようだけれど、少なくとも公園内の地形は、城っぽいのだがどこがどうなのかよくわからない、という所。あとどうでもいいんだけど、公園の北東側の行き止まりにあるスペースのベンチで、高校生カップルがあーれーなことをしていてwwそのエリアを見られなかったのが残念wwまだ夕方の六時くらいで明るいのにお盛んなことで…若いって素晴らしいw
高台なので東京の町並みがよく見えるかと思いきや、木が茂っていて景色がいいとは言えない状況。特に山城址にありがちだが、手入れがされないため、城の上から景色が見えず、いまいち城からの見張りがどのようになっていたのかがイメージできないのは残念。

とりあえず城の地形が残っている公園北側一帯を巡った後、公園の北口から出て、民家のあたりをぶらぶらして城の地形が残っていないか探してみる。太田道灌が寄進したと言われる神社があったが、そこから南に延びる道路はどうも堀切テイスト。そこをまっすぐいったらお寺にぶつかり、中をのぞいてみたが人の気配もなく、外にある案内板くらいしか見るべきものはない。

再度公園南東側の正面入り口から公園に入り、今度は地形が残っていない公園南側をぶらぶら。こちらは木が茂って鬱蒼としている北側と異なり、花の展示などもあって市民公園ぽくなっている。国府台合戦で討ち死にした武士の墓に手を合わせ、夜泣き石などを見学した後、井戸を見て里見公園散策は終了。国府台駅を目指す。

井戸のそばの道がどう見ても人工的な堀切で、思わず写真を撮ってしまう。さらに、国府台駅への近道と思われる江戸川沿いの堤上の道を通らず、その堀切らしき道を東へ向かい、松戸街道を南下して駅を目指すというルートをとってしまったw

松戸街道は地形の制約ゆえか二車線の狭い道路ではあるが、どうやら千葉の沿岸部から内陸部に向かう主要街道のようで、トラックが多く通っていたが、沿道には中学高校や大学がずっと連なっていて、道の横の狭い歩道を中高生がうじゃうじゃ歩いていて、人も車も混んでいるという体。安全面で気を遣わないのかなあとか思ったものの、学生さんたちは平気で道路に下りたりしているので、慣れているんだろう。
とりあえずすれ違う女子中高生に避けられていた自分はそんな心配より自分の心配でしょうねww

いずれにせよ、川沿いを歩かなかったことでかなりの遠回りになってしまったことは間違いなく、大変疲れ果てて国府台駅前到着。空腹に耐えかね、駅前のローソンでパンやらを買い込み、駅のベンチで人目も気にせず食べる。そして、町屋行きの電車に乗り込み、江戸川を渡って千葉に別れを告げた。

国府台駅で電車に乗ったのが午後七時。およそ五時間で20km弱を歩くというかなりの強行軍でした。

*1:三度という説もある

*2:記憶違いかも。総理大臣経験者だったことは確か

*3:長野県上田市武田信玄が、村上義清に大敗し、武田方の板垣・甘利といった重臣が討ち死にした

*4:上に書いたとおり、そういう風にみられるのが当然な格好でなおかつ平日の昼間に観光なんてあやしすぎるのだけどww

*5:あたりまえですね

*6:25歳ですが学生ですキリッ

*7:勢力の拮抗するラインの住民は一番不幸だよな…

*8:第一次国府台合戦とこの地はあまり関係ないはずだが…

*9:ただし異説あり