革新なき伝統

2021年7月24日、東京五輪の開会式が行われた。その印象から。なんだろう、この感覚は、何かに似ていると思った。翌日わかった。複数の弁護士がパートを分担して調査報告書を作成する仕事の、各パートを統合しただけの報告書である。この手の報告書は、各パートにいい出来のものがいくらあっても、一本の筋が通ってないと、全体として何が言いたいのかよく分からなくなるのである。これをビシッと筋の通ったものにするのが、仕事の総指揮を執る指揮官ポジションの弁護士の責務である。

この種の仕事の出来は、総指揮を執る弁護士の腕にかかっているというのが、私の経験上の結論である。特に、事務所の規模が大きくなると、各パートを担当するのは経験の浅い弁護士だったりするが、これらの現場で汗をかく弁護士をまとめ上げ、同じ問題意識を共有し、仕事に取り組み、筋の通った検討と結論を報告するには、かなり高い能力が必要である。

さて、今回の開会式。個々のパートで見ると、素晴らしいものもあった。これは、現場が頑張ったのだろう。しかし、全体を通して、何が伝えたかったのかよくわからなかった。これはおそらく総指揮の問題だろう。

結局、この問題は、指揮官の問題であり、「失敗の本質」(特にリーダーシップ編)で語られたものなのだろう。指揮官の無能を、現場が庇い疲弊する。指揮官は代位な場面で決められず、最終的に組織外の何かによって物事が決まる。そういえば、先日も、宮内庁長官の発言があった*1。これはもはや我が国の伝統芸能なのか。

一方、気になるのは、現場の力の低下である。東京五輪とそれと関連性の強いコロナ禍対応を巡るゴタゴタの多く*2は、リーダーの問題だったかもしれないが、事務レベルで対応すべきを対応できなかった現場の力の低下もあるだろう。以前であれば、リーダーがいかに無能でも、それをカバーできる現場の力があったのだろうが、それすらできなくなっているのではないかという印象を受ける。たとえば、開会式であれば、天皇陛下がお言葉を述べられる際に、首相と都知事が間を置いて慌てて立ち上がったり、日本の入場時にアナウンスが「にっぽん」ではなく「にほん」と言ったり、チャイニーズタイペイなのに並びが「たいわん」と思えたり*3、過去の問題発言で辞任退任した直後に、ダイバーシティとの関係で問題発言をした作曲家の音楽を使っているといった事象である。或いは、これだけの予算がかかってしまってこのクオリティのものしかできないという事象である。指揮官に加えて現場も力を失っているとすると、最早日本の力は失われてしまっているということになってしまう。

もう一点気になるのは、「頑張っている人がいるのに批判するのか」論である。これも伝統芸能のようだが、批判を封じ込めてなあなあにするのは、世界において日本を劣化せしめる最大の原因の一つである。確かに、このような文化を一律に悪とは思わないが、世界的競争社会の中で、この文化は断罪せざるを得ない。とりわけ、長期政権になってお仲間度合いが上がっている社会においてはそうである。たとえば大横綱がエルボーを繰り出したり、奇襲をする。これはルールで禁止されていないのだから、勝利のためには当然である。それを品格云々で批判するのは、なあなあ文化を共有していれば可能だろうが、その文化の中にいない人には通じない。記録上の大横綱を記憶上の大横綱たらしめられなかったのは、その文化を維持しようとし、異なるルールメイクという文化に移らなかった当然の帰結である。今回の五輪も、終わってみたら何となくうまくいった、ということになり、誰も責任を取らないであろう。それも伝統であるか。

 

*1:一方、野党議員が最早天皇陛下しか五輪を止められない等と民主制を擲つような発言をしたと聞き、開いた口がふさがらなかった。政治利用という批判がされているそうだが、ただの政治家としての責任放棄である。

*2:ただし、首相のリーダーシップの下でワクチン接種が動き出したのは正しいリーダーシップの発揮だと思っている。

*3:あえてやったのではないかという説が巷間有力だが、現場の力の低下を見ていると、本当にミスしただけではないかという印象を持つ。