言葉の重み

言葉というものは厄介なもので、発するときは気を付けないといけないというのは、弁護士をやっていると本当によく思うところです。特に、日本の訴訟はその傾向が強く、裁判官の内心を言葉の節々から探り、それを踏まえて訴訟追行をしていくわけですが、法廷で喋りすぎると自縄自縛に陥ることもあるわけです。まさに、あまりきれいな表現ではないですが、吐いた唾は飲めないということだと思います。

 

その意味で、評価するのも畏れ多いところではありますが、天皇陛下のお言葉というのは、まさに練られ尽くされています。私が本当にお言葉を拝読して涙が出たのは、上皇陛下の御譲位にあたってのお言葉の以下の部分でした。

 

即位から30年,これまでの天皇としての務めを,国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは,幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ,支えてくれた国民に,心から感謝します。

 出典:退位礼正殿の儀の天皇陛下のおことば:天皇陛下のおことば - 宮内庁

 

あくまでも私の解釈ですが、このお言葉の中の「信頼と敬愛」というのは、まさに、上皇陛下の御父上である昭和天皇の、いわゆる人間宣言を踏まえたものであろうと思います。

然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。

これを前提に上皇陛下は上に引用したお言葉の中で、人間宣言における「国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ」ていなければならないということを念頭に、御自身におかれては、30年に渡り信頼と敬愛をもって行うことができ、それは御自身にとって幸せであったということを仰っているのであろうと思います。その反面、全国民が御自身に対して信頼と敬愛とをもって臨んでいたか、つまり、天皇と全国民が相互の信頼と敬愛とによって結ばれることができたかや、全国民が象徴としての御自身を受け入れ、支えたかどうかまで断定する御意図はないことも伺えます。最初は、上皇陛下はこの30年の間、常に、敗戦直後に昭和天皇の述べられた「信頼と敬愛」を念頭に置かれていたのだなということにただただ感涙しましたが、その後はわずか二文でここまでの御意図を伝えられるのだと驚かされました。

 

一方、今年は、まだ2か月しか経ってないのに、引用するのも嫌になるような失言の連続が話題となりました。また、威勢のいい政治活動をしていた人が、その不正を疑われるた途端に手のひらを返すようなこともありました。

一連の失言についてまず思ったことを述べれば、これらの失言が生じた組織は、日本の伝統的な組織としても機能していないということでした。日本の伝統的なリーダーシップは、トップはドンと構えて、実務は下の人間にやらせ、責任だけを取ればいいというもので、極端なことを言えば、大将は参謀の助言に従って動けばよかった。このような伝統的組織構造からすると、大将がミスをするのはまさに参謀のミス或いは機能不全でしょう。その意味では、大将が挨拶を自由に行える時点で、失言を組織として防げる体制はなかったということでしょう。吐いた唾はまさに飲めないわけですが、そのことを軽んじていたのか、或いは組織として最早そこはどうしようもないと思っていたのか、よくわからないものの、いずれにせよ組織としてそこまでのガバナンスはなかったのでしょう。

次に、威勢のいい政治活動をしていた人たちとその周辺者については、本当にかっこ悪いとしか言いようがないです。私の理解或いは価値観では、落とし前を付けるという意味での潔さ、より厳密に言えば、裏ではいろいろあるけれども、表向きの説明が成立する程度の潔さが、少なくともここ150~300年程度の日本社会の美徳ではないかと思っていましたが、威勢のいいことを言っていたのに、それに対して表向きの説明が成立する説明ができておらず、その意味で、最低限の潔さがない。威勢のいいことを言うのは悪いことではないけれども、そのような言葉を発してしまうと、引けなくなるのです。その意味での言葉に責任が取れないのであれば、威勢のいいことは言うべきでないでしょう。

言葉を使って商売をする身分として、そして、大言壮語してそのハードルを越えていくスタイルを多用する性格の自身にとって、言葉の重みに関して他山の石としたい2か月でありました。