事実の探求について

弁護士1年目の際に、沢山の指導をしてくれた先輩弁護士から言われたのが「弁護士は自分の目以外信じるな」ということでした。

 

さて、今世間を騒がせている以下のニュース。

【全文】小室圭さん金銭問題の説明文書公表 | 皇室 | NHKニュース

私は、時間を見つけてすべて全文を読みました。読んですぐに、先輩弁護士の言葉を思い出したのです。そこで受けた印象は、およそ世間で言われている評価とは異なるものでした。

世間では、弁護士やジャーナリスト等の多くの人たちがこの件についてコメントをしています。しかし、そのかなりの部分について、本当にこの文書を読んだうえでコメントをしているのだろうかという感想を持ちました。

たとえば、作成者は感謝の気持ちを持っていないというような指摘ですが、文書中には以下の表現があります。

元婚約者の方が母との婚約を破棄するまでの間支援してくださったことへの感謝の気持ちは当時も元婚約者の方に繰り返しお伝えしていましたが、今も大変ありがたく思っています。 

また、それなりに紛争を取り扱っている弁護士からすると、この文書を読めば、作成者の意図や、世間であまり取り上げられていない事実に気づけるはずです。そもそも、紛争案件において、わざわざこのような事実を詳らかにする文書を開示することはまずありません。このような文書を開示すると、後で揚げ足を取られたり、細かい検証をされるからです。また、世間に事実を開示することで、紛争の相手方との玉虫色の解決(落としどころ)を探れなくなるからです。その意味で、弁護士がついていながら、一般的に悪手としか思えないこのような方策を取ったのはなぜなのか、弁護士ならある程度その理由を想像できるでしょう。ただ、その理由について具体的に言及しても、その弁護士自身は全く得をしない。そのため、世の中でコメントしている弁護士で、その理由について言及していない方々は、文書をちゃんと読んでいないか、何らかの動機であえて言及していないかでしょう。

加えて、現在弁護士を目指している方々には、是非この文書を読んでいただきたいと思います。この文書を読むことで、世の中の紛争というのはどういう経緯で生じるのかや、色んな意図が織り交ぜられた文書を経験して頂けるであろうと思います。

弁護士にとって、一番大切なのは事実を探求する能力と姿勢です。もちろん、事実を探求した結果、それが依頼者にとって不利な法的評価に至る可能性もありますが、事実を見誤ってするアドバイスは意味がありません。その意味で、改めて一年目で得た金言を思い出した出来事でした。

漆器と供物台の彫刻と

本日偶々目にした記事で大きな衝撃を受けました。

dot.asahi.com

私が衝撃を受けたのは以下の部分です。

この日の会見で記者は毎回、手を上げ続けたが、約10問の質問全てに指されることはなかった。それでも手を上げ続けたが、彼女は、

「それでは、会見は終了させていただきます」

 と、強引に会見を打ち切り、菅首相は去って行った。

 会見後、山田氏が記者席にやってきたところを、挨拶がわりに名刺を差し出し、「次はあてていただけませんか」と頼んだ。名刺には「週刊朝日」とネット媒体の「AERA.dot」の記者と印刷されている。

 山田氏は名刺を見ながら「AERAはいつも読んでいます。AERAさんなら」。「週刊朝日なんです」と伝えると、「週刊朝日はちょっと……」と難色を示した。

これに対して記事は、以下のように締めくくっています。

AERAも同じ朝日新聞出版の媒体ではあるが、そもそも、広報官が媒体名によって「あてる」「あてない」を判断していたとしたら問題ではないか。政界関係者からは「会見前に、あてる記者はだいたい決まっている」という説すら聞く。

 山田氏の後任の広報官には、平等な運営を求めたい。

しかし、私が衝撃を受けたのは、山田広報官が、「週刊朝日はちょっと……」と率直に難色を示していることです。仮に山田広報官が、媒体によって選別をして指名していることに後ろめたさを感じていれば、このような発言はせずに「なかなかバランスよく指名させていただくのは難しくて」なり「なるべくバランスよく指名させていただくようにします」なり言うと思うのですが、そうではなく、堂々と、週刊朝日は指名したくないと述べているのです。つまり、彼女は、彼女の主観に基づき妥当な質問をしないと思われる記者を指名しないことは正当であると考えているのだろうと思います。

私は、首相の記者会見というのは、国民に対する説明の場であり、記者というのは、国民に代わって質問をしていると理解しています。それに対して、媒体によって選別をすることを正当と考えるのは、およそ理解できません。

加えて、私が彼女の背景に見たのは、現在のわが国において、公務員の国に対する思いが、悪い方向で作用しているのではないかということです。私は霞が関で務める公務員の皆さんに対して、基本的に尊敬の念を持っています。彼らは、国に対する熱い思いを持って日々の仕事に臨んでいると思っているからです*1

その一方で、彼らの国に対する純粋な思い、いわば大義が、悪い方向で作用すると、とんでもないことになるというのは、直感的に感じるところであり、かつ、先の大戦も教えるところです。

たとえば、「現在のような非常事態において、政権を維持することは必須である。そのためには、少々のことには目をつぶり、無理を通す必要もある」という「大事の前の小事」ロジックが典型です。もちろん、そのような場面が現場ないし実務においてあるであろうことは想像できます。しかし、これが行き過ぎると、何があっても政権を維持しなければならないという発想になってしまい、法令違反すらなかったことにされてしまいます。

加えて、純粋な思いが強いと、かかる発想を推し進める力も強くなります。大義の前にはやむを得ないという、「大人な判断」によって空気が形成され、その場が制圧されるという場面が連続していくでしょう。

今回の山田広報官のコメントからは、彼女は悪い意味で悪人ではなかったのだろうという印象を受けました。そして、そのような人物が、天真爛漫に、純粋な思いから、少なくとも私の感覚ではおよそ理解できない行為を正当と思って行ったというのは、私に大いなる衝撃を与えてくれました。きっと彼女は、自分は間違ってなかったと思っているのでしょう。そして、大人な判断を愛する一部の人たちは、彼女は大義のためにやったんだと思うのかもしれません。

しかし、大義や理念等というものは、法律でいう信義則のようなものであって、いかようにも解釈でき、理由付けにはなりません。応仁文明の乱の両軍も、関ケ原の戦いの両軍も、それこそ山一抗争の両当事者も、最近話題の崩壊したスター軍団のベンチャー企業の両当事者も、それぞれが大義を掲げているのですから。

最後に、貞観政要に出てくる三つの言葉を紹介したいと思います。

「およそ大事はみな小事より起こる。小事論ぜずんば、大事また正に救うべからざらんとす。社稷の傾危、これに由らざるはなし 」

「諍臣は必ずその漸を諫む。満盈びては、まむるところなし」

「ただ願わくは陛下、臣をして良臣とならしめよ。臣をして忠臣とならしむるなかれ」

 

最近の状況を見るに、小事を論ずることが怠られ、最早満盈んでいるのではないかという気もしますが、わが国において、公務員の皆さんが忠臣ではなく良臣であり続けられる世の中が維持されることを祈ってやみません。

*1:熱い思いがないと続けられないようなハードワークになっている現状を肯定するつもりはないですが、そのような環境で国のために働いている方々には強い敬意を持っています。

言葉の重み

言葉というものは厄介なもので、発するときは気を付けないといけないというのは、弁護士をやっていると本当によく思うところです。特に、日本の訴訟はその傾向が強く、裁判官の内心を言葉の節々から探り、それを踏まえて訴訟追行をしていくわけですが、法廷で喋りすぎると自縄自縛に陥ることもあるわけです。まさに、あまりきれいな表現ではないですが、吐いた唾は飲めないということだと思います。

 

その意味で、評価するのも畏れ多いところではありますが、天皇陛下のお言葉というのは、まさに練られ尽くされています。私が本当にお言葉を拝読して涙が出たのは、上皇陛下の御譲位にあたってのお言葉の以下の部分でした。

 

即位から30年,これまでの天皇としての務めを,国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは,幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ,支えてくれた国民に,心から感謝します。

 出典:退位礼正殿の儀の天皇陛下のおことば:天皇陛下のおことば - 宮内庁

 

あくまでも私の解釈ですが、このお言葉の中の「信頼と敬愛」というのは、まさに、上皇陛下の御父上である昭和天皇の、いわゆる人間宣言を踏まえたものであろうと思います。

然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。

これを前提に上皇陛下は上に引用したお言葉の中で、人間宣言における「国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ」ていなければならないということを念頭に、御自身におかれては、30年に渡り信頼と敬愛をもって行うことができ、それは御自身にとって幸せであったということを仰っているのであろうと思います。その反面、全国民が御自身に対して信頼と敬愛とをもって臨んでいたか、つまり、天皇と全国民が相互の信頼と敬愛とによって結ばれることができたかや、全国民が象徴としての御自身を受け入れ、支えたかどうかまで断定する御意図はないことも伺えます。最初は、上皇陛下はこの30年の間、常に、敗戦直後に昭和天皇の述べられた「信頼と敬愛」を念頭に置かれていたのだなということにただただ感涙しましたが、その後はわずか二文でここまでの御意図を伝えられるのだと驚かされました。

 

一方、今年は、まだ2か月しか経ってないのに、引用するのも嫌になるような失言の連続が話題となりました。また、威勢のいい政治活動をしていた人が、その不正を疑われるた途端に手のひらを返すようなこともありました。

一連の失言についてまず思ったことを述べれば、これらの失言が生じた組織は、日本の伝統的な組織としても機能していないということでした。日本の伝統的なリーダーシップは、トップはドンと構えて、実務は下の人間にやらせ、責任だけを取ればいいというもので、極端なことを言えば、大将は参謀の助言に従って動けばよかった。このような伝統的組織構造からすると、大将がミスをするのはまさに参謀のミス或いは機能不全でしょう。その意味では、大将が挨拶を自由に行える時点で、失言を組織として防げる体制はなかったということでしょう。吐いた唾はまさに飲めないわけですが、そのことを軽んじていたのか、或いは組織として最早そこはどうしようもないと思っていたのか、よくわからないものの、いずれにせよ組織としてそこまでのガバナンスはなかったのでしょう。

次に、威勢のいい政治活動をしていた人たちとその周辺者については、本当にかっこ悪いとしか言いようがないです。私の理解或いは価値観では、落とし前を付けるという意味での潔さ、より厳密に言えば、裏ではいろいろあるけれども、表向きの説明が成立する程度の潔さが、少なくともここ150~300年程度の日本社会の美徳ではないかと思っていましたが、威勢のいいことを言っていたのに、それに対して表向きの説明が成立する説明ができておらず、その意味で、最低限の潔さがない。威勢のいいことを言うのは悪いことではないけれども、そのような言葉を発してしまうと、引けなくなるのです。その意味での言葉に責任が取れないのであれば、威勢のいいことは言うべきでないでしょう。

言葉を使って商売をする身分として、そして、大言壮語してそのハードルを越えていくスタイルを多用する性格の自身にとって、言葉の重みに関して他山の石としたい2か月でありました。

弁護士9年目を迎えて

無事弁護士9年目を迎えた今年から、現在の事務所でパートナーに就任することになりました。幸か不幸か、新卒で入った事務所でそのままパートナーになることとなりました。そこで、以下に、何を考えて事務所に残ろうと思ったのかを書いておこうと思います。

私は弁護士5年目くらいから、大変ありがたいことに、ベンチャー企業を中心として、私自身の顧客が増えてきました。そのため、パートナーのオファーを受けた時点で、友人の事務所に合流し、または直ちに自分で独立しても問題ない程度の売上は期待できました。つまり、その時点で、手元には、パートナーになるというカードの他、独立というカードがあったということになります。しかし、私は前者を選びました。これは、世界で戦う日本企業をサポートできる一流のチームを作りたいという思いを実現するためには、今の事務所でパートナーになるのが最適解のように思えたからです。

おそらく、それなりの規模の事務所では「パートナー」というと魅力があるのが一般的な理解でしょう。しかし、私は、弁護士は一騎当千であるべきという発想が強いため、「パートナー凄い!」という発想が嫌いでした*1。また、このような発想があることに加え、私自身の顧客の大部分が、私の所属事務所にほぼ関心を持っていないことから、パートナーという看板に魅力を感じていませんでした。

しかし、今から事務所を立ち上げたり、新しい環境に入ってチームを立ち上げていくというのは時間の無駄に思えたのと、現在の事務所で一流のチームを作ることができる可能性を感じたことから、パートナーとなることとしたのです。

これが数年前であれば、海外研修ができていないことなどを理由に、パートナーのオファーをいったん保留するかしていたでしょう。しかし、ここ2年ほどの経験が、チームの必要性を私に痛感させ、かつ、そのチームを作るための時間というのは思ったほど残っていないということを認識したことから、さっさとパートナーになった方がいいと思うに至りました。

すなわち、2019年後半から、新しいジャンル・言語や、難易度の高い仕事が増え始めた一方、従前来扱っていたジャンルの仕事も減らないどころか増えるという、弁護士冥利に尽きるけれどもこのままでは死ぬぞというような状態が始まりました。

特に、2020年は、質量ともにチャレンジングな仕事を扱う機会が増えました。とりわけ、この年、コロナ禍で海外留学・長期研修の道が断たれた私は、是が非でも英語を身に着けるため、自分の縁で外資企業にパートタイム出向し、無理やり英語の仕事を増やすことにしたのですが、これがもう本当に厳しいチャレンジとなりました。もともと持っていた仕事が減るわけではない中で、慣れない英語の仕事が月一定時間増える訳です。弁護士人生で相当久しぶりに、空き時間の全てを仕事に突っ込んでも仕事が終わらない状態を数か月経験しました。

そうした「弁護士冥利に尽きながら死ぬ」状態が続いていた昨年、パートナーのオファーを受けたわけです。そのため、私にとってそのオファーは、この弁護士冥利に尽きる状態を、自分1人で対応できる範囲以外を放り投げて独立するか、自分のできる範囲を超えてチームで対応できるようになることを期待して残るかということの選択と同義となりました。そうしたときに、現在の環境を見ると、一流のチームを作ることができる可能性を感じる一方、敢えて環境を変えるほどの理由はありませんでした。

また、しっかりしたチームを作るとなると、チームメンバーとして優れた人材が揃った状態であっても、最低3年はかかります。加えて、チームのヘッドになれるような人材というのは、現在の私の環境では、5年から10年に1人の巡り合わせであろうという印象を持っています。そうすると、リクルートにも力を入れなければいけません。私は、専門分野ごとにチームを作るイメージを持っているため、少なくとも3つくらいはチームが必要であろうと構想しています。そうなると時間はいくらあっても足りません。したがって、新しい事務所に移籍したり、自分で独立したり、或いはパートナー就任を先延ばしするのは、時間の無駄でしかないという結論になりました。

ところで、7年目になった際にこのブログに以下を書きました。

一方、弁護士7年目となると、そろそろ進路の問題が出てきます。つまり、今いる事務所で経営側に回るのか、他の事務所に移るのか、独立するのか、或いはインハウス等の弁護士事務所以外で働くのかということです。

この判断をするに当たっては、弁護士を続けるとしたときに、その目的をどう考えるかが大切でしょう。もちろん自分の食い扶持を稼ぐのが職業の本質ですが、弁護士という職業は、職業≒人生となりやすいので、目的を持たないと、人生が無目的となりかねないように思います。ではその目的はと自問したとき、今は、「世界と戦える法律家チームを作る」というのが一つの答えになるでしょうか。日本が世界と戦うために必要となる法律家チームを構築し、企業の役に立ちたいということです。

それゆえ、私の進路に関する考え方はシンプルで、上の目的を達成するために何が一番いい選択なのかというに尽きます。

 これを書いた年(2019年)から、チャレンジングな状況が続きましたが、その結果、この考えは変わらなかったし、さらに考えを具体化する計画も見えたということです。

これは逆に言えば、今の事務所に残ってみて、やってみて、これが世界で戦う顧客の役に立つチームを作るという目的に叶わない環境であったなら、環境を変えなければならないということをも意味します。

それでも、結局自分は、それなりの所得でそれなりの生活を送るよりも、挑戦が続く生活を好むようであり、上の目的のためにハードワークをする方が趣味に合うようです。したがって、この目的を忘れないためにも、久々にブログに記事を投下した次第です。

顧客のために、自分の力を尽くして頑張る。それが、弁護士のあるべき姿だと思っています。今後も自身これを続けるとともに、これを実践する弁護士のチームで、より多くの価値を顧客に提供していきたいと思います。

*1:いざなってみると、友人知人が祝ってくださったので、なってよかったなと思ってはいますが、パートナーになったから凄いのだ・偉いのだという風潮には強い違和感を持ちます。顧客のためにいい仕事をすることだけが弁護士の価値であり、それが様々な理由で売上に繋がりやすかった弁護士がパートナーになるだけのことですから、パートナーでないからどうのこうのという議論は的外れでしょう。

井波律子先生の逝去を悼む

2020年5月13日、井波律子先生が逝去された。
初めて井波先生の本に接したのは、大学生の時に読んだちくまの正史三国志であった。当時私は貧乏学生で、通常の新書の倍の値段がすることもあって、好きな人物について立ち読みをしていたのだが、最後には我慢できなくなって曹操が載っている魏書だけ買った。白文を読む能力がない私にとって、井波先生は、漢籍に接させてくれる有難い指導者だった。私は先生にお会いしたことすらないが、勝手に自分の人生における師匠の一人のように思っていた。
 
正史三国志もそうだが、とにかく井波先生の翻訳は読みやすく、文章も美しい。たとえば、ご著書の「完訳 論語」は、前書きの文章が引き締まった名文で、どうやったらこういう文章が書けるのだろうと思わされた。同書は、私が人生に悩んだときに買った一冊で、私の自宅の机のすぐ横に置いてあり、疲れたときは手に取っている。読書は著者との会話と言われるが、楽しい会話ができるかはその人の文章次第で、文章は人格の顕れだと思う。井波先生の文章は、優しさにあふれていて、読んでいて励まされるものだった。
 
心よりお悔やみ申し上げたい。 

検察OB有志の意見書のまとめー「司法の前衛」たる矜持

本年5月15日、元検事総長を含む検察OB有志の14名が、法務省に対し、東京高検検事長の定年延長について意見書を提出しました。検察OBがこのような連名での提出をするのは極めて異例のようで、世間では色んな評価がされています。

ところで、朝日新聞のウェブ記事*1において、意見書の全文が掲載されていました。この内容を読んだところ、法律家の意見書として非常に力強く、かつ、検察OBの矜持を各所に感じる名文だと感じました。私は検察官が100%正義であるとは思いませんが、それであっても、たとえば、検察官は「司法の前衛たる役割を担っている」とか、「正しいことが正しく行われる国家社会でなくてはならない」といった言葉には率直に感銘を受けました。

とはいえ、この意見書は、内容が格調高く、行間を読むことも必要になる文章で、一般の方からすると読みにくいきらいもあるかもしれません。そこで、以下に私なりにまとめてみました。これを参考にして、ロッキード事件にかかわった検察OBの矜持あふれる意見書全文を、ぜひ読んでいただきたいと思います。

 

主張1:東京高検検事長黒川氏の定年延長は法的根拠がない

その理由:

  1. 黒川氏の定年延長は検察庁法に基づいていない。法律に拠らずに行ったもので不当である。
  2. 内閣は、検察官にも国家公務員法が適用されるとして、国家公務員法に基づく定年延長を主張する。しかし、この主張は、以下の理由により、間違っている。
  • 検察庁法は、国家公務員法に優先する法律であり、定年については検察庁法に規定がある。したがって、国家公務員法の定年の規定が検察官に適用されることはない。なお、政府も従来このように解釈していたし、過去にはそれと違う運用がされたことは一度もない。
  • 検察官は、起訴の権限を独占しているし、捜査権を持っている。また、政財界も捜査の対象とする。その意味で、検察官は準司法官と言われ、司法の前衛の役割を担う。そのような特殊性から、検察庁法という検察官の身分を保障する特別法が定められ、検察官に一般の国家公務員とは異なる制度が用意されている。したがって、検察官に国家公務員法が適用されることはない。

 

主張2:本年2月14日の安倍総理がした国家公務員法が検察官にも適用されるとした解釈変更は不当である

その理由:

  1. これは内閣の解釈で法律の解釈運用を変更したものだが、国会の権限である法律改正の手続きを経ずに、このような解釈変更するのは危険である。本来なら国会での法改正によるべきである。
  2. このような解釈変更は、フランス絶対王政を確立したルイ14世の「私は国家である」という言葉を思い出させるような、越権行為である。
  3. ジョン・ロックは「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告しており、このような警告を念頭に置かなければならない。

 

主張3:仮に変更後の解釈が正しくても、黒川氏の定年延長をする法律上の要件が充たされていないので、定年延長は不当である

その理由:

  1. 仮に国家公務員法が検察官に適用されるとしても、定年延長には、余人をもって代えがたいというような理由が必要である。
  2. しかし、黒川氏でないと対応できないような事案があるとは思えない。引き合いに出されるゴーン被告逃亡事件であっても、黒川氏でないと対応できないとは考えられない。
  3. 余人をもって代えがたいというのは、新型コロナウイルスの流行を収束させるために必死に調査研究を続けている専門家チームのリーダーで後継者がすぐに見つからないような場合くらいではないか。

 

主張4:次長検事検事長の定年延長を可能にする法改正は検察人事への政治権力の介入であり不当である

法改正の内容:

  1. 今回の法改正で、次長検事検事長は、63歳の職務定年の年齢になっても、内閣が必要と考えれば、内閣の裁量で、1年以内の範囲で定年延長ができるとするものだ。

法改正が不当な理由:

  1. 政界と検察の間では、検察官の人事に政治は介入しないという確立した慣習があり、これは「検察を政治の影響から切り離すための知恵」とされている。しかし、以上の法改正は、この慣習を破るものである。その意図は、検察の人事に政治権力が介入することを正当化し、政権の意に沿わない検察の動きを封じ込め、検察の力を抑えることにあると考えられる。
  2. 検察庁法は、もともと、組織の長に事故があったり、欠けたときに備えて臨時職務代行の制度を設けている。このことからすると、定年延長という制度は想定されていなかった。今回の法改正はこのような検察庁法の原理に反する。

 

主張5:今回の法改正がされると、検察は国民の期待に応えられなくなる

その理由:

  1. ロッキード事件が報道されたときに、東京高検検事長の神谷氏は「いまこの事件の疑惑解明に着手しなければ検察は今後20年間国民の信頼を失う」と述べ、ロッキード事件の方針が決定し、田中元首相の逮捕まで至った。
  2. このような展開になったのは、当時の政治家が、捜査への政治的介入に抑制的だったことにある。
  3. 検察の歴史の中では、捜査幹部が押収資料を改ざんするという恥ずべき事件もある。現役検事たちが、これがトラウマで育っていないのではないかという思い委もあるが、検察は強い権力を持つ組織として謙虚でなければならない。
  4. しかし、検察が委縮して人事権を政権に握られ、起訴・不起訴の決定までコントロールされるようになると、検察は国民の期待に応えられない。正しいことが正しく行われる国家社会でなくてはならない。

 

結論:

  1. 黒川氏の定年延長及びその後の法改正は検察の組織を弱体化して時の政権の意のままに動く組織に改編させようとするものであって、見過ごせない。内閣は法改正を潔く撤回すべきである。
  2. 撤回されないなら、与野党の境界を超えて多くの国会議員、法曹、心ある国民すべてが、法改正に断固反対の声を上げて阻止する行動に出ることを期待する。

 

意見とりまとめ者(清水勇男氏)の追記:

  1. この意見書は、本来は広く心ある元検察官多数に呼びかけて協議を重ねてまとめるべきであった。しかし、法改正の審議がされるという差し迫った状況下で、意見のとりまとめに当たる私は既に85歳の高齢に加えて疾病により身体の自由を大きく失っていることもあり、少数の親しい先輩と友人に呼び掛けて起案した。
  2. 更に広く呼びかければ賛同者も多く集まり、連名者も増えると思うが残念である。

 

「お察しください」

極めて感覚的な話を書く。

日本人、正確には日本の文化で育った人たちは、意見を直言しない傾向が強い。「言わずもがな」の文化とでも言えばいいのだろうか。だから、リーダーは基本的に、その統括するグループの構成員の「言わずもがな」の意見を看取する能力に長けている必要がある。また、構成員も、社会の中で知らず知らずに身につく同一性・均質性を前提としたコミュニケーションを身に着ける。このようなコミュニケーションができる人間が日本では「大人」と評価される。日本人の多くは多感なのである。

たとえば、漢籍の話だが、貞観政要で太宗の臣である魏徴が太宗に対して頭を垂れて述べた「ただ願わくは、陛下、臣をして良臣とならしめよ。臣をして忠臣とならしむるなかれ。」という言葉がある。魏徴の含みは、良臣というのは繁栄する君主の下で称賛される家臣を言うが、忠臣というのは、悪君の下で忠言したのに誅殺されるような家臣を言うということである。これくらいのニュアンスが丁度いいのである*1。ここで面と向かって「あなたは間違っている」と言って大声を張り上げるのは大人ではない。

一方、そのような「言わずもがな」の文化へのカウンターなのか、あるいは、そういう文化ゆえに、反逆児が愛されるのか、いつからか直言居士が流行るようになった。みんなが思っているが言えないことをズバッと言う。これが持てはやされるようになった。最初はそういう人たちは、流行るからやっていたのかもしれない。つまり、流行を読むという意味で多感な人が、何らかの目的で直言居士を装っていたのだろう。しかし、いつからか、偽装されたものではなく、真正の直言居士が蔓延るようになってきたようだ。これに加えて、直言居士をよしとする人たちも増えているようだ。

本来これは日本の文化の主流ではなかったのではないかと思う。多感な人たちは、皆まで言わずとも察知できるから、思っていることを全部言う必要はなかったし、やっていいこと悪いことも、言わなくてもわかるはずだった。大人の社会では、ルールは表向きのルールブックには書かれていないのである。

たとえば、先輩と食事に行ってご馳走になる。その際にレジで先輩が会計をするのを見ていたら、マナー違反である。あるいは、お堅い職場で客前に出る一年目の従業員が派手なネイルをしていたら、おそらく評価は下がる方向に働く。これらは、多くの場合、ルールブックには書かれていない。それがわからないと、或いは、それを注意してくれる大人がいないと、その人間は永遠に大人になれないし、大人の間で軽んじられる。これは日本社会の一つの恐ろしいところではあるが、別にこのような構造は他文化においても同様にある。

さて、日本では、大人にしか見えないルールがあるのだが、真正の直言居士はこれが見えない。とりわけ質が悪いのは、彼らは得てして大人の評価すら見えないことである。そして、大人は大人ゆえに、これをたしなめないのである。あるいは、悪い大人は、真正直言居士と結託することで得られる利益を優先するのである。そうするとどうなるか。真正直言居士の真正直言居士による真正直言居士のための世界の完成である。

日本の社会制度においては、不文律が一定の意味を有していた。それは、社会で影響力を有する人たちが大人であることを前提にしていたのだろう。大人であれば、不文律を読解するし、その重要性も理解できるのである。そういえば不文律の類語は紳士協定であった。

しかし、真正直言居士は、不文律が見えない。だから重要性も理解できない。そうすると、不文律でない書いてあるルールしか気にしない。不文律の機微なんて読み取れないのである。

こうして、日本社会は、真正直言居士の支配するものとなる。そして、過ちを繰り返す。

*1:ただし、太宗は魏徴に対し、良臣と忠臣は何が違うのか聞き、魏徴はこれを説明している。